ご承知のように、「一期一会」とは井伊直弼の『茶湯一会集(ちやのゆいちえしゆう)』を典拠にしている。また、千利休の弟子、山上宗二(やまのうえそうじ)の『山上宗二記』のなかで「一期に一度の会」と表した。お茶にとっても禅にとっても、非常に重要な言葉である。
 しかしあまりにも見慣れすぎていて、その真意を受け流してはいないだろうか。
 たとえば井伊直弼の『茶湯一会集』には、「幾度おなじ主客交会するとも、今日の会にふたたびかえらざる事を思えば、実に我一世一度の会也」と云う。今日の出逢いは二度とない、一世一度の交会だというのだが、それを素直に認めれば、あらゆる未来への想定ができな、ということである。
 今回、三月十一日の大地震そして津波被害を目の当たりにし、我々は震度七という想定外の揺れと津波に心底慌てふためいた。私の住む福島県三春町も震度五強から六弱。お地蔵さんがあらかた倒れて首が折れた。墓地の復旧は恐らくお盆までかかるだろう。
 むろん、もっと北のほうでは津波による未曾有の大量死を経験し、膨大な建物の倒壊と流出を招いた。まさに「凄惨」と云うしかない。衣食住の全てが「瓦礫」となり、これまでの生涯をかけて築き上げてきたあらゆるものが海の藻屑と消え、また灰燼に帰した。圧死、溺死、焼死、一瞬のうちにじつにさまざまな仕方で無数の命が奪われてしまった。
 連日かつてないほどテレビを視ながら、私は大きな変化の予感のようなものを感じていた。まるで初めての、かつて全く知らなかった世界が訪れるような気がした。そしてふいに「一期一会」という言葉を憶いだしたのである。
 自然は常に我々の想定を軽々と超える。だからこそ「自然」なのだ。「一期一会」とは、「自然」と共に生きることの別名ではないか……。人間がいかに精密に想定し、着実に用心しようと、必ずそれを超えてくるのが自然なのだろう。


『荘子』達成篇には、大亀や鰐、魚やスッポンでも泳げないほど激しい水流の滝で泳ぐ男の話が出てくる。孔子はそれを見て自殺かと見誤り、弟子たちに流れの岸に沿って救わせようとしたのだが、男は下流から上がってきてざんばら髪のまま鼻歌まじりに遊びだした。孔子は驚いて男に近づき、訊いた。
「鬼神かと思ったら人間じゃないか。ちょっと伺いたいのだが、こんな激しい水流を御するにはなにか秘訣でもあるのかね(請い問う、水を踏むに道あるか)」
「いや、べつに秘訣なんてありませんが、私はただ故に始まり、性に長じ、そして命に成ったまでです。渦巻いたらその水とともに沈み、湧きあがる水につれて浮かびあがり、水の法則にただただ従って私を差し挟まないのです。まあそれが、秘訣といえば秘訣ですかね」
 故とは生まれつきの部分、性とはその後の習い性による能力、そして命とは全ての人間を動かす人為の及ばない力のことだ。
 たしかに滝の場合はその三つをうまく連携できたのかもしれない。しかし今回の津波の場合はそうはいかなかった。どんな法則でも絶対化できないというのが「一期一会」の真意である。
 自然は人間を謙虚にする。所詮、限られた経験以上のことが今後も起こりつづけるだろう。そう思えば、三十年から五十年も冷却保存し、その後地下三百メートルより深くに三百年間は埋設しなくてはならないプルトニウム燃料の使用など、今後は考えられなくなるだろう。
 この世にたかだか百年たらず仮住まいして去っていく人間に、そんな大それた負の遺産を残す権利はないはずである。
 これまで湯水のごとく意識さえしなかった空気や電気が、ここに来て急に意識の中心に居座っている。これこそ一世一度の交会である。

 
 
 
「なごみ」2011年6月号 
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