禅には「両忘」という言葉がある。たとえば善悪、美醜、尊卑など、反対語のある概念は両方ともでっちあげだから、忘れたほうがいいというのである。あらゆる二分法を捨て、当初の渾沌に戻るというのが坐禅の主旨といっても過言ではない。
 しかし世の中の風潮を眺めると、どうもこの二分法がどんどん強まっているような気がする。アメリカはイラン、イラク、北朝鮮などを「悪」と呼び、さまざまな会社も経営の「良否」が一律に判断され、子供たちでさえ相手を敵か味方かだけで二分する。敵だと判断されると一斉に「いじめ」が起こるのである。
 どうもこの思考法、ゲームに似ているのではないか。ゲームの場合は、善悪ははっきりしたほうが面白い。しかも水戸黄門にも助さん格さんがついているように、善とされる側もたいていは暴力を振るう。いや、正義の暴力はヒーローの美徳でさえあるのだ。
 今や日本人の三割、中学生では七割、小学生では八割五分がパソコンやテレビでゲームに親しんでいるらしい。
 アメリカでのある調査によれば、子供たちは小学校を終える段階で、八千件の殺人と十万件の暴力行為をゲームのなかで「目撃」しているという。また平均的なアメリカの子供は、十八歳になるまでに、少なくとも暴力的なシーンを二十万回、殺人を四万回は「目撃」するらしい。これらは岡田尊司氏の著書『脳内汚染』 (文春文庫 )
 に学んだことだが、著者は日本ではゲームの内容についての規制が甘いから、おそらくアメリカ以上だろうと推察している。
 こうしたゲームに熱中する子供たちをゲーマ−というらしいが、一日四時間以上ゲームで遊ぶ子供にはじつに顕著な特徴が現れる。これも同書に載せられた資料だが、兵庫県の魚住絹代氏が寝屋川市を中心に東京・大阪・長崎で行った大規模な調査結果がもとになっている。あまりに衝撃的なので、謹んで引用させていただきたい。
 そのアンケート結果によれば、四時間以上のゲーマーでは、「人は敵か味方のどちらかだと思う」と答えた割合が、あまりゲームをしない子の二・五倍あった。また「少しでもダメなところがあると、全部ダメダメだと思ってしまう」子供も二倍、そして「人づき合いや集団が苦手」な子は四倍、「人を信じられないことがある」子は二倍、さらに「傷つけられるとこだわり、仕返ししたくなる」子も二倍強だった。
 本来、楽観的で希望に溢れ、善悪にさえあまりこだわらないはずの子供たちのこうした傾向には、岡田氏ならずとも単純化されたゲーム・ストーリーによる刷り込みが感じられないだろうか。
 先日、法事に出かけた家で、故人の孫にあたる五年生の男の子が、お経が始まる直前までゲーム機を放さず母親に叱られている場面に遭遇した。私は彼に普通に話しかけたが、彼はどうしても私の目を見ないのだった。すでにシナリオのあるデータだけをいつも相手にしている彼とすれば、見たこともない服装をした「 坊さん」という新たな人種の出現に戸惑っていたのだろう。ナマの世界を情報化する前頭前野の能力が、ゲーマーでは発達しにくいと指摘する研究もある。
 果たして敵と思われたか味方と見たのかは知らないが、彼に人間関係を作り上げていく意識が希薄だったことは確かだろう。ダメになれば「リセット」すればいいというのもゲーム独特の感覚である。
 まだ人間観も現実も把握もできていない子供にとって、ヴァーチャルな世界が与える影響は思いのほか大きい。あまりに無慈悲で無感覚な犯罪の増加をまのあたりにするにつけても、外で遊ばなくなった子供たちの行く末を想わずにはいられない。
 本来、動物には同種の動物を殺すことに対する強い抑止力が存在したはずである。しかしそうした生得的なプログラムも、岡田氏によれば、戦闘的なゲームに習熟することで解除されるのだという。現実に、イラクに向かう米兵はそのような訓練を受けている。
 思えば瞬時に敵味方を見分けることも、孤独に耐えて必ず仕返しする性癖も、前線の兵士に求められる能力ではないか。今は単にそれが一般市民に及んできたに過ぎない。
 一方では戦争を推進し、他方で平和で安全な社会を望むというのは、どだい無理な話なのである。軍事力をもっと増強するなら、異様で残虐な犯罪ももっともっと増えると、覚悟しておいていただきたい。

中日新聞 2008年7月20日文化面
東京新聞 2008年8月19日夕刊  「生きる」