近頃、というよりもう二十年以上まえから、全国の隅々までコンビニが増えつづけてきた。現在では、総数四万店舗にもなんなんとし、しかもその九割以上は二十四時間営業だという。
 このことが日本に及ばした影響はきわめて大きいと思う。実際のコンビニばかりでなく、生活のコンビニ化によって起こった日本人の変化について考えてみたいと思う。
 かつて柳田國男は、日本国内に鉄道が引かれるとき、そんなことをしたら地域独自の文化が存続できなくなると、本気で危惧した。しかし今の日本には、残念ながらコンビニにその危機を感じる感性はないようだ。すでにテレビで慣れてしまったのかもしれない。地域文化どころかグローバリズムという無謀な均一化がどんどん推し進められ、コンビニは無意識にその準備を国内で整えた。方言をはじめ、ほぼ一切の地域性を排除した明るい機能だけの空間が、日本からさらにアジアに広がろうとしているのである。
 そこで交わされる言葉は完全にマニュアル化されているため、何を言われても聞き耳をたてる習慣がなくなった気がする。それは言葉の死にも等しい。「いらっしゃいませ」から「またどうぞお越しくださいませ」まで、相手は人を見ることなく同じ科白を繰り返す。誰も聞かない言葉がそこでは虚しく繰り返される。人間と人間が、出会っているのに孤独、という事態は、そのような言葉の反復によってあっさり実現するのである。
 そんなことなら生身の人間である必要はないだろうと思うのだが、どうしてもそこは崩さない。ロボットのように人間に振る舞わせる。人間は、そこではロボットより気まぐれで頼りないが、入れ替え自由でお手軽な労働力なのである。
 機能だけの空間と申し上げたが、そこではお金をもってさえいれば、子供でもお年寄りでも等しく消費者になる。同じく「ありがとうございます」と言われる権利を有し、幼児でも大人と対等なのである。だから「あんた、どこの子だい?」などと訊かれるいわれはないし、まして礼儀がなっていないと叱られることもない。従業員はただひたすら売るだけに徹すればいい。要するに誰もが生活を離れてそこでは出会い、それ以外の礼儀などには関心を示さないのが礼儀なのだ。
 夜は客も少ないのだし、若者が誘蛾灯に群れ集まるように屯するから、夜中は閉めたらどうか、と思う。しかし経営者にすれば、閉めても夜中に冷蔵庫をとめるわけにはいかないから、経済的には大差ないのだという。あくまで二十四時間営業は崩さず、照明器具のLED(発光ダイオード)化などに躍起である。かくて夜は寝るものという常識も崩れた。
 コンビニに限らず、年中無休の店があることで、日本の正月は明らかに壊れた。パートの主婦は休みもとれず、お節料理など作ってられないし、だいいち年中買えるなら作り置きのお節など必要ないではないか。三が日という特別な時間も、すでに昔の話だ。正月という最大行事が壊れれば、あとは雪崩をうってあらゆる伝統行事も壊れていくだろう。
 しかも母親が作ってくれるはずだった料理もコンビニで買える。父親が連れていってくれた映画もコンビニでDVDを買い、自宅で見る。ほぼ同時に進行したテレビの個室化と携帯電話の普及で、たいがいのことは親なしでもOKになった。そうなると、お金さえあれば家庭だってなくともOKではないか。コンビニにはATMもあるし宅配便も送れる。周囲もコンビニには大いに期待しているから、この流れは変わりそうにない。せめて私は、三が日と夜中は閉じてほしいのだが、燦然と輝くコンビニ様は聞いてくださるだろうか。


げんゆう・そうきゅう 1956年、福島県生まれ。慶應義塾大学文学部中国文学科卒。臨済宗福聚寺住職。福島県警通訳。妙心寺派現代宗学委員。2001年、「中陰の花」で第125回芥川賞受賞。07年には柳澤桂子氏との「般若心経 いのちの対話」で第68回文藝春秋読者賞を受賞。8月末に新潮社から連作小説集『テルちゃん』が刊行される。

中日新聞 2008年7月6日 文化面
東京新聞 2008年8月5日夕刊 「生きる」