このところ、島田裕巳氏が『葬式は、要らない』 (幻冬舎新書)を書き、一条真也氏が反論として『葬式は必要!』 (双葉新書)を書くなど、お葬式をめぐる状況の変化が(にわ)かに注目されている。
 私の立場で「必要」だと申し上げるのは当然だとしても、要は刺激的なタイトルにばかり振り回されることなく、お葬式に限らない現状の変化を見つめることだと思う。
 島田氏も一条氏も指摘することだが、戦後の日本は、深い考えもなく核家族化を進め、しかも今や高齢化が進んで「家」という場が危うくなってきた。戦時中に柳田國男が『先祖の話』で書いたような、死によって子孫たちの「ご先祖になる」誇りや喜びなど、すでに夢のような話だろう。
 結婚式もそうだが、お葬式もお墓も昔から「家存続の願い」としてあった。ところがその「家」の紐帯(ちゆうたい)じたいが緩み、地域との(つな)がりも希薄化しているわけだから、どれも変わって当然である。
 戦後のそうした大波のような変化のなかで、多くのお寺は戸惑いと躊躇(ためら)いのなかにあったと思う。なぜなら、核家族化や地域の解体ばかりでなく、木を()り道を舗装し生活の手間を省き効率ばかり重視するやり方には、少なくとも本来の仏教寺院はあまり賛同しないからである。賛同できない世の中の流れを眺めながら、システムは旧来のまま保ちつつ変化には個別に対応し、いつか復活する家や共同体を夢見ていたのが寺ではなかっただろうか。
 一条氏には申し訳ないが、どのような変化でも即ビジネスチャンスとして対応するのが商売として葬儀に携わる人々だろう。その究極の対応によって生まれたのが「直葬」という葬儀なき葬送である。
 むろん私は葬祭業界を非難するつもりではない。「無縁社会」が取り沙汰(ざた)される現在、そうした人々にも誰かが対応するしかない。いわば戦後の核家族化や経済至上主義の必然的な結果として登場したのが葬儀無用論や直葬なのである。
 葬儀がひどく多様化するなかで、比較的保守されているのが墓地かもしれない。「お墓参り」という習慣は老若を問わず案外保たれている。ならばお墓を新たな共同体の根拠地に据えたらどうか。自然葬や個人の永代供養墓など、個人のための埋葬にすぐさま対応する前に、これまでの墓地を二軒以上で共用することを、お寺も勧めてはどうだろう。
 夫婦に一.二人程度しか子供のない現在、男女比半々だとしても嫡子は〇.六人しかおらず、四割の墓地は次の代で無縁化することになる。同じお墓に入る人が多くなるほど、葬儀への関心も高まるのではないか。
 要するに親族や地域との人づきあいを長年面倒がった結果として今がある。同じお墓に入る仲間を決め、少しは面倒なつきあいをしてみたらどうだろう。都会と違って、田舎は普段からけっこうしてるんですけどね。

福島民報 2010年 6月13日 日曜論壇