死んだらどうなるの? 


「ダーナ」 2005年 WINTER(1/20発売) DANA INFORMATION BOOK

 「死」とは何か。「あの世」とはどういうところだろうか。「魂」って本当にあるのだろうか。「小学校の三年生の頃、死ぬのがこわかった」という自らの体験を踏まえて、誰でもが必ず抱く根源的な疑問に、僧侶である著者がていねいに答えてくれる一冊。
 宗教的な観点だけでなく、科学的な見方も踏まえて、「死」をどうとらえるかを、まっすぐに語りかけてくる。

<ちくまプリマー新書>は、中高生以上を主な読者対象とした新書シリーズ。言い回しはやさしくなっているものの、内容的には大人でも十分読み応えがある。



読売新聞 2005年2月13日号 本よみうり堂 愛書日記(部分転載)    赤瀬川原平氏

〜眠気を春のせいにして〜
 玄侑宗久『死んだらどうなるの?』(ちくまプリマー新書)も、タイトルに引かれた。このタイトルには誰でも目を引かれるのではないか。大人も子供も、世界中のみんなが「どうなるの?」と思っていて、しかも正解は誰も知らない。人類が始まって以来、いまだに誰もどうなるのかわからないんだから、このタイトルは大昔から古びない。内容は科学世界と宗教世界とを透明人間のように往来していて、答はわからないにしても、いつの間にか納得に近づいている。


日経新聞 2005年2月24日号夕刊 読書日記「死は 無でないと思いたい」    鴻巣友季子氏

 ある意識調査で、人間は死んでも生き返ると答えた小中学生が一五パーセントもいたそうだ。ホントなの? と思っているところへ、中高生以上をターゲットに創刊した「ちくまプリマー新書」が五冊届いた。玄侑宗久の『死んだらどうなるの?』をひらく。
 僧侶の著者は、仏教の教えを量子力学にも読み替えていく。色即是空の「空」は量子力学の「暗在系」にあたり、その全体運動を感じることが、「お悟り」だという。そして、死後の世界とは生の世界を反映する「できごと(現象)」である、と。なるほど、死は生なのだ。
 人間は死を拒めない。けど無に帰すのではないと思いたい。だから、哲学だって文学だって(アテネの哲人から「セカチュウ」まで)、死は「消失」とは違うのだとひたすら言ってきた。つまり人間は死の恐怖を乗り越えるために、あらゆる芸術を生み出だし、知恵を講じてきたのだ。でも死が簡単にリセットできると思えば、強靭な知恵も生まれてこないんじゃないか。今のゲームやアニメの多くが、死を扱いながら時として命の陰影の深さに欠けるのはそういうわけか。と、この新書を読みながら考えもした。
 初めから死が怖くない人生なんて、つまらないだろうにな。



北海道新聞 2005年3月6日号 「ほん」今週の新刊と文庫

 死の定義から、あの世、魂といった死にまつわる疑問を、宗教的観点と科学的な見方などから説いた一冊。「自分が死ぬこと」を思って毎晩泣いていた子どものころの自分にむけて書いたと著者は言うが、それでも「死」を説明するのは一筋縄ではいかない。冷静に読みたい一冊。

北海道新聞社許諾D0507S118T0507(―‘05.07.31)


PHPカラット」5月号 PHPスペシャル5月増刊号 カラット図書館 〜編集部のおすすめ〜

 著者は死んだらどうなるの? という疑問を子供のころから心に留めてきた。修行や僧侶としての体験を通して、さらには宗教的な観点や科学的な見方も交え、縦横無尽に死について語る。
 物理学まで持ち出してきて、あの世や魂の存在を論じたあげく、論理的に死をわかろうとすることをあきらめろと説く。ついには死んだらどうなるの? という質問に、「誰にでも共通する答えはない」と答えるのである。
 ふざけるな! とはならないのが本書の読後感だ。自分なりの死生観を持ち、育むのには充分役立つし、「人の生き方や考え方は変わる」という、当たり前ながら切羽詰まったときには忘れていることを改めて認識できる。


エスクァイア日本版」5月号  週末の友人 永江 朗の「新書の時代」

  • 『新人生論ノート』(集英社新書) 木田 元著
  • 『現代思想のパフォーマンス』(光文社新書) 難波江和英・内田 樹著
  • 『死んだらどうなるの?』(ちくまプリマー新書) 玄侑宗久著
 食べる、遊ぶ、セックスする。楽しいことはたくあんある。でも、いちばん楽しいのは、考えることかもしれない。それも、簡単には答えが出そうにないこと、たぶん永遠に答えが出ないことついて、あれこれ考えることほど、楽しいことはないのではないか。
 『新人生論ノート』は、ハイデガーや現象学の研究で知られる哲学者のエッセイ。といっても、オリジナル『人生論ノート』の著者、三木清はすごく性格が悪かったらしい、なんていう話から始まるように堅苦しい本ではない。故郷、記憶、運命、理性、などとテーマをあげて語るが、いずれも結論らしい結論はない。読んでいて物足りなくも感じるが、よく考えると、簡単に結論が出るようなことではない。むしろここで木田が示すのは、深刻ぶらずに考えるとはどういうものか、という態度なのである。人生というのは結論ではなく、プロセスのことだ。
 思想家の名前や概念を暗記したからといって、人生の意味がわかるわけではない。なぜなら思想とは道具なのだから。道具は使ってナンボのもの。ドライバ−やスパナを額縁に入れて眺めてたってしょうがない。『現代思想のパフォーマンス』は、ソシュール、バルト、フーコー、レヴィ=ストロース、ラカン、サイードの6人の思想を、どう使うのかという実践的ガイド。しかも、ソシュールで『不思議の国のアリス』を読み、バルトで『エイリアン』を読むというポップなスタイルだ。わけも分からず使っているうちに、思想家の考え方がだんだん納得できるようになる。
 木田元ですら、『新人生論ノート』で、自分の死について「よく分からないし、あまり分かりたくもない」と書いている。でも、子供にとっても大人にとっても、死とどう向き合うべきかは最大の難問だろう。『死んだらどうなるの?』は、禅僧にして作家の著者が、子供たちに向かって語る死についての本。あの世はあるのか、魂はあるのか。昔の人はどう考えてきたのか、西洋近代科学はどう考えているか。もちろん簡単な答えはない。でも、答えがないからおもしろい。死とは、そこに向かう態度のことか。


大法輪]5月号  書物の輪蔵  [あの世]とは? [魂]とは?

 玄侑宗久氏の最新著書『死んだらどうなるの?』は、死、ないし死後の世界について、ユーモラスに、しかし真摯に言及したもの。
 死(後)というテーマは、現在の日本では、とかく曖昧に扱われることが多い(仏教界においても然り)。が、玄侑氏は、「空」「無我」等の仏教教理の原則を踏まえ、かつ現代物理学等の見方をも交えながら、物怖じすることなく「死とは何か」を真正面から語る。
 玄侑氏の代表作『中陰の花』等においても、死の何たるかをテーマとしていたが、本書は玄侑氏による死への探求の、一つの集大成というべき内容だといえよう。 



「信濃毎日新聞」   2005年6月19日号 「読書」

諸学を横断し誠実に向き合う。
「……著者は仏教や漢籍の知識はむろんだか、理論物理学や医学など科学の方面に博学。……つまり諸学を横断した上で、仏教の思想を位置づけ解読するのである」「話題の拡散を自ら認めたり、「私はウソつきである」とさえ述懐。死を知っているかのように語ることのうさんくささを、自覚しているからだ。だからこそ本書は本気で書かれているのだとわかる」「対談『脳と魂』を本書と併せて読むとさらに興味は深まるだろう」