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簡単に申し上げてしまうと、「まぁお茶でもどうぞ」という言葉には、車のナヴィゲ-ターについている「現在位置」のような効果がある。ナヴィゲ-ターというのは、日本国中の地図が入っているわけだから、矢印を動かしていくとどこへでも繋がる。昨日行った場所だって、あるいはこれから行こうとする町のコンビニだって探すことができる。しかしひとたび運転しようとすると、「現在位置」を押し、自分が今いる場所に戻らなくてはならない。趙州和尚は相手を「今」に引き戻すために「喫茶去」を言い続けるのである。
また無粋な云い方になるが、ここに来たことがあるかどうか、というのは、いわば「歴史」である。人生にとって、歴史は無視できないが、しかし禅の修行には関係ない。歴史から独立した「今」があり得ると、禅は考えているのである。
また院主さんの質問にそのまま理屈で答えたのでは、概念になる。ふつう人が暮らしていくには概念とかコンセプトも必要だろう。今していることが、何のためなのか、ということだ。しかし趙州和尚は、そこでも黙って「現在位置」に戻してしまう。そんなことは関係ないのだ。とにかく歴史からも概念からも解放された「今」を生きること以外に、趙州和尚のお示しはないのである。
もっと幅を広げて受けとめることもできる。
千利休は茶室に躙り口を発案したが、それはお茶を飲むにあたって不要なものは一切剥ぎ取るためだった。刀、身分、プライド、装飾品、あるいは社会的な立場もそこではすべて脱ぎ捨て、ただ一杯のお茶を挟んで向き合うのである。
そう思えば、この「喫茶去」も鋭い刃物のように見えてくる。「まぁお茶でもどうぞ」と優しく言いながら、趙州和尚は修行者の胸ぐらを掴んで揺すぶっているようなものだろう。
中国宋代の松源崇岳禅師はその語録に、「趙州の喫茶去は、鉄蛇古路に横たう。踏著(とうじゃく)すれば、乃ち非を知る。仏もまた作すに堪えず」とその恐ろしさを示しながら褒めちぎっている。その深い主旨に気づくと、鉄蛇をふんずけるほどに恐ろしく、仏だって趙州の思惑どおりにはできないと云うのだ。
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