脳と魂の間の補助線  ―既成の概念にとらわれない、生のリアリティに着地した語り  



茂木健一郎

多くの猥雑なノイズがまとわりついている対象を捉える

  線を一本引くだけで、一見脈絡がない複数の対象の間の関係が明らかになる。ぱっと、ひらめきが訪れ、それまで不可視だったものが見えてくる。幾何学の問題を解いていて、そんな経験をしたことがある人も多いだろう。補助線を引くことは、今のところは人間の脳に固有の能力である。コンピュータには、補助線は引けないし、引けても役に立たない。コンピュータは、局所的なロジックを積み重ねることができるだけである。全体をまとめてゲシュタルト的に見せる力がなければ、せっかく補助線を引いても意味がない。人間の脳は、一見関係のないものを一本の線を手がかりに結びつける能力を持っているのだから、せいぜいその能力を使うのが良かろう。
 本書は、養老孟司さんと、玄侑宗久さんが、脳と魂の関係を巡って対談した記録である。もっとも、そもそもタイトルはたいていの場合後から編集者が付けるものだし、会話というのはその場で生成されるものだから、二人の対話がテーマに即かず離れずの予定調和にとどまるはずがない。しかし、結果として、全体を通して見ると本書は脳と魂の間に補助線を引くことに成功しているように見える。すなわち、対論としても本としても成功したことを意味するのであろう。
養老さんも、玄侑さんも、特定の観念やイデオロギーのとらわれることなく、自分の実感から自由に発想できる人たちである。そうでなければ、歴史の転換点に立ち、既成の考え方では自由を支えきれないと感じている現代人の知的興味を満足させられるはずもない。これからの日本をどうするかという実際的な問題から、脳と魂を巡る形而上学的な問いまで、私たちは紋きり型の言説には、飽き飽きとしているはずである。世界には定まった価値や法則はなく、全ては相対的であると囁くポストモダンのいい加減さにもうんざりだ。既成の概念にとらわれず、しかもどっしりと生のリアリティに着地した養老さんや玄侑さんの語りに人気が出るのは当然のことである。
 「脳」や「魂」を巡っては、近年、どこかで聴いたような言葉が積み重ねられてきた。脳で言えば、「何々をすると、どこどこが活性化する」といったタイプの言説である。脳の複雑さを良く知っている人ほど、このような機能局在的な言説が、限定的な意味しか持たないことを知っている。実際、アメリカでは、脳活動のイメージングに基づく単純なる機能局在説は、新しい「骨相学」であると批判する本が出ているくらいである、日本のテレビや雑誌で現在大流行の「脳科学」は、処方を誤れば、血液型人間学くらい根拠のない話になりかねない。日本人の知性の軽重が問われる事態である。「魂」を巡っても、うさんくさい言説が世にあふれていることは、二人の対話で小気味よく明らかにされている通りだ。「脳」と「魂」には多くの猥雑なノイズがまとわりついている。だから、その間に補助線を引くといっても、まずは対象をしっかり捉えなければならない。心眼を鍛えなければ、真理に到達するどころか、ぐちゃぐちゃの絵ができるだけである。
 養老さんは、補助線として「システム」を持ち出す。二十世紀の科学は、「システム」を置き去りにしたというのである。システムを壊すのは簡単だが、つくるのは難しい。システムを分解して、分析することばかりを科学がやってきて、システムをつくることの難しさに真剣に向き合って来なかったとしたら、そのことが現代人の様々な病理現象とかかわっているのではないか、そういうのである。
 「うんと直接的に考えたら、人間が人間を殺しているんじゃないんです。鉄砲玉でシステムが破壊しちゃうんです。営々として何十年も動かしてきたものがね。それでそれを修理できるかっていったら、誰も出来ないんですよ。人にはそれが出来ない。そこの価値観が壊れちゃってるんですよ。」(養老孟司)
 玄侑さんは臨済宗の僧侶である。僧侶は人間の生き死にを扱う。生き死には人間まるごとの問題だから、そこには当然人間というシステム全体がかかわってくる。そのシステムに名前をつければ、魂になる。「金輪際」など、仏教用語の多くがその本来の意味を離れて日常語化しているだけに、仏教哲学の神髄を知るには、私たちは手垢のついた仏教のイメージから離れないといけない。
 「紀元前六世紀くらい、ちょっとデモクリトスよりも少しまえに、インドでも分割できない粒子で世界を構成することは可能かっていう議論がやっぱりあるんですよ。ヒンドゥー教と仏教の間でもあったし、仏教の内部でも繰り返されるんですね。そういう議論が。その結果インドでは、それが無理だっていう結論に達するんです。」(玄侑宗久)
 脳と魂の間に「システム」という補助線を引くと、そこに現代人の病も、希望も見えてくる。私にはそう読めた。インターネットもナノテクノロジーも、つまりは人間がよりよく生きるための道具に過ぎない。その人間とは一体何なのか、その本質を理解する努力を忘れてはいけないのではないか。線の引き方は、一人一人違うはずである。他人任せにしないで、自分なりに世界を理解しようと努めたらどうか。ここに、二人の偉大なる先達の描いた補助線がある。最初はそれを参考にすると良い。

図書新聞 2005年3月12日号 第2717号