『リ−ラ  神の庭の遊戯』

この世のことは「リーラ」にまかせて    ― 玄侑宗久『リーラ 神の庭の遊戯』

                                      




立松和平  

 禅は明晰な思想である。禅僧である著者がなぜ霊魂のことや、世にオカルトと呼ばれている現象を主題とした小説を書くのかと、私は疑問を持っていた。そして、この小説を読み、その疑問が解けたように思った。
 私たちが生を刻んでいるこの世には、明晰なだけでは解くことのできない中間的な世界がたくさんあり、その領域は思いがけないほどに広いと、認識というほどではなくとも感じている人は多いに違いない。その世界は形があるようで、現実に形をとらえることは難しい。その困難さのゆえに幻想とか妄想とかであると断じ、いわば差別をし、論ずるに足りないと自己合理化しているのではないか。そうしながらも、どこかでやはり感じてしまう。
 その微妙な世界を描くのに、小説はよい方法である。この世に生きるという営為とまわりのすべてのことに興味を持ってしまう作家にとって、霊魂のことは果敢に挑むべき対象である。だが生半可なことでは、とらえきれる世界ではない。その困難に挑んだ今回の作品は、多重な視線で一人の死とその後の三年間を見つめることによって、よく成功しているといえる。作者の挑戦と達成を、私は賞賛したい。
 飛鳥という名の若い女性が唐突に自殺をした。この世から去ったはずのその人の存在を、残された人はいろんな立場から感じる。生きていた時よりも、むしろ死者になってからのほうが、残された人の中で濃密に生きはじめるのだ。多くの人とは、弟、母親、離婚した父親、ストーカーである専門学校の教師、恋人とはいえない相談相手の男、恋人である弟を通して会ったことのないその姉を感じる沖縄の女性などである。
 どの人たちもうろたえながら、偶然の結果として人間関係を結んでいる。恋人になりきれない相談相手の男と飛鳥は、地下鉄駅でぶつかっただけの関係である。弟とその恋人の女性とは、電車で向かいあいに坐ったというだけの出会いだ。離婚した両親もそのいきさつが詳しく語られているわけではない。母親と呼ばれる人も、娘と呼ばれる人とどんな関係を結んでいたかと自問すれば、たちまち曖昧模糊としてくる。親、子、恋人といっても、それぞれの役割を演じているわけですらない。人間関係がないのに、親子であり恋人であるといったほうがよい。それぞれの立っている場所から、見えるとか、手を伸ばせば届く位置に立っているとか、その程度の立場でしかない。
 そのような関係とはいえない関係を、一昔前なら否定的にとらえたであろう。しかし、著者は肯定的にとらえるのだ。毎日教室で顔を合わせる教え子の女子学生に、姿を隠して無言電話をかけ、性的いやがらせの手紙を郵便受けにいれ、レイプまがいのことをし、彼女が自殺した三年後に彼女の相談相手に殴られて入院した専門学校教師は、気にいったスペイン語のボーカル曲「神の庭」を聴きながら、ある認識に到達する。


 これまでのどんな出来事も、網の目のように繋がって飛鳥のことに収斂していった気がする。虐められたことも虐めたことも、むろん昨日の出逢いも、今日の痛みも、みな雀たちを繋いでいる同じ力に支えられているのだと思えた。そう、みな「神の庭」の出来事なのだ。
 涙がなぜ出てくるのかはわからなかった。
 ずらりと並んでいた雀たちがまた一斉に飛び立った。

   飛鳥が、なにかを諒解して飛び去ったような気がした。

 美しい文章である。社会の敵として糾弾されるべきストーカーが、「神の庭」にはいって懺悔をし、泣いているのである。ここには、善意や罪などという概念を越えた、宇宙の成り立ちについての認識がある。これは仏教でいえば「縁」ということである。「縁」には、善悪も罪もなく、価値観はまったく含まれていない。
 宇宙は「リーラ」でできたと、弟の恋人はいう。神の遊戯ということだ。人が生きるのも死ぬのも、渡り鳥が一斉に飛び立って何千キロを飛ぶのも、花の受粉をミツバチや風にまかせるのも、「リーラ」なのである。おおらかで楽天的な「リーラ」にまかせていれば、穏やかに生きていける。
 いってしまえば仏のことなのだが、作家は「リーラ」と方便をもっていうのである。


「波」2004年9月号