文学芸術
書評『アミターバ―無量光明』

虚の世界が現実以上の現実となって現前する一瞬を語る   




小林広一(文芸評論家) 

 かつて幸田露伴は仏教の教えに基づいた「風流仏」を創作するに際し、言文一致ではない「文章」体に依拠して表現したのだが、今同じ宗教体験について創作するとしたら、表現はどうなるのだろうか。その困難なところに挑んだ作品である。
 物語は語り手である老女が、ガンで入院し、娘と娘婿の寺住職や息子、弟、医師らに見守られて、ついに死に至るというものであるが、地獄、極楽、三途の川、あるいは、アインシュタインの理論、ドッペルゲンガー現象などが話題になっている。たとえば、なぜ先に逝っている夫が突然迎えに現れたのか、と問うと、この世界とは次元が違う時空間である量子という目に見えない世界が、別な時空間に移動するのではないか、と説明している。
 問題は後半である。死が近づきもうほとんど意識がない、そして死者となった身から後片付けをする遺族について語っていくのだが、この箇所はざまざまな疑問がついてくるであろう。一方でもうほとんど意識がないとか、逝去後で存在していないといっているのに、他方でどうして、語ることができるのか、と。しかし、語ることができるのか、というのなら、より根本を見つめて、いったい、語るとはどういうことなのか、つまり、そもそも小説を語るとはどういうことなのか、と問うべきではないか。
 そういった問いは冒頭から始まっている。ここで彼女はしっかりとした意識で、今見た不思議な光景もさしたる意味のない夢なのだと思った、と言っているが、そのさりげない言い方は、多くの場合われわれが日頃さしたる意味のない夢=小説に囲まれて生きているところからくるのであろう。多くの人はおそらく、夢も小説も意味があってもそんなに重要な意味をもっている、とは言えないにちがいない。ところがここから彼女は現実か夢かといった境界を渉猟し、しだいに夢のリアリティーを強調してくる。それどころか、最後には現実より夢の方が信頼できる、ということになってくるのである。であれば小説もまた、同じであろう。小説とは、確かに現実ではない。現実になることはついにありえない虚の世界であって、紙の上だけの現実である。にもかかわらず、現実以上の現実となって迫力をもって現前することがときにはあるのではないか? この小説が迫っているのは、この一点にほかならない。
 たとえば、結婚もせずひたすら仕事に打ち込んできた会社が破産し絶望し、無口で他人に言えない思いをもっていた息子が、教会のボランティア活動を手伝っていたとき「怖いくらい静かに見えてた山とか川とか、街も人もまた元気に動いているって思えた」、花がちゃんと自分たちのことを見ている、と生きる喜びに浸って、急に饒舌に語り出し、キリストの復活と同じように自らの魂が復活したといっている。また葬式のとき彼女は、「人生の雄大さ」ということを発見した感動を生き生きと語っている。息子も彼女も、ともに宗教的感慨が起きる奇跡の一瞬を語っているのだ。そんな一瞬があると、読者は果たして、信じられようか―。とすれば、小説創作が果たすべきことはやはり同じであって、そういった宗教的感慨に非常に近いところで、いや、というよりも、宗教と小説といった差異など考えられぬところで、ひたすら復活≠願って語りつづけるべきなのである。


「週刊読書人」2003年7月4日号