『テルちゃん』
 これまで介護を扱ったさまざまな作品を読んできたが、そこには介護をめぐる困難さや苦労がつきものであった。介護とは苦痛を伴うものであり、できれば避けて通りたいというイメージは多くの人が抱いていると思う。
玄侑宗久氏の『テルちゃん』(新潮社)は、そういった介護のネガティブなイメージを覆す、とても温かい物語である。
テルちゃんは、はるばるフィリピンから24歳も年上の男のもとに嫁いできた。しかしわずか2年半で夫が亡くなり、残された1歳半の息子と介護を必要とする義母との生活をその後も続ける。
亡くなった夫には弟がいる。その嫁である玲子は隣県で中学校の国語教師をしており、義母の介護についてテルちゃんに甘えていることを常に申し訳なく思っている。同時になぜそこまでテルちゃんがしてくれるのか理解に苦しむ。その玲子の目を通して、テルちゃんの自然な生き方が描かれている。
物語を効果的に進めるのは「かぐや姫」や「浦島太郎」「わらしべ長者」「おむすびころりん」などの昔話の挿入である。日本語を勉強するために亡き夫が読み聞かせたであろうそれらの昔話が、そのままテルちゃんの生き方に重ねられている。

第一話「ぼわん」は、故郷フィリピンでの伯父の葬儀に出かけたテルちゃんがそのまま戻ってこないのではないか、と残された家族が思いを巡らせる話である。父母や兄弟姉妹、昔からの友人もおらず、気候も生活習慣も違う異国の地での暮らしが、テルちゃんにとって幸せであるはずがない。「かぐや姫」のように遠い世界に戻ってしまうのではないかと玲子は思う。
フィリピンでは満月も三日月も「ぼわん」と呼ぶのだそうだ。不安を抱える玲子の気持ちは月の満ち欠けのように動揺していたが、テルちゃんはいつも満月なのだと玲子は気づく。

第二話「ばろっと」は、テルちゃんが自動車免許の学科試験に挑む話である。テルちゃんがいない間、夫と二人でやっとの思いで義母の浣腸を済ませた玲子は、義母が浣腸を週に二度も三度も必要としていたことを初めて知り、自分の無力感に苛まれる。けれど、テルちゃんは、「そのとき苦しい、あとは楽」と微笑むのだった。
「わらしべ長者」のように、いきあたりばったりのように見えるテルちゃんの生き方は、結果など予想せずにどんな「今」にもすべてを注ぎ込む人生の達人の姿なのだ。

生き仏のようなテルちゃんの真似は到底できないかもしれないが、注目したいのは介護を受ける義母の姿である。
異国からの嫁を受け入れ、身の回りの世話の一切を嫁に託す。もしテルちゃんがお婿さんをとることになったらという問いかけにも、「テルちゃんはあたしたちの、可愛い娘だよ」と答える。
玲子の夫もこの母に育てられた息子なのだと納得できる人物だ。第三話では「おむすびころりん」になぞらえてこの次男夫婦の馴れ初めも語られる。50を過ぎた夫から「幸いにもお前が落ちてきたんだ」とさらりと言ってもらえるなんて、なんとも羨ましい。
家族の幸せのヒントがたっぷりと詰まったこの物語。ぜひご一読を。


(評者=椋 とんび)
月刊「介護保険情報」2008年12月号/No.105(社会保険研究所)
『テルちゃん』
 玄侑宗久(新潮社)
道尾秀介
ミチオ シュウスケ 1975年東京都生まれ。2004年『背の眼』でホラーサスペンス大賞特別賞を受賞。’07『シャドウ』で本格ミステリ大賞。著書は『ラットマン』『カラスの親指』など。



 すべての生き物の中で、感情的な涙を流すのは人間だけだという。ものの本によると涙にはエンケファリンという物質が含まれていて、これがじつは天然の鎮静剤なのだとか。つまり人間は感情が(たか)ぶったとき、泣くことによって心の動揺を抑えようとしているのだ。結果、そこに生まれるのは何か。それはきっと、安堵なのだろう。
「テルちゃん」は、はるばるフィリピンからやってきた。日本人の男性と結婚して子供を授かるのだが、この夫がある日ぽっくり死んでしまう。祖国から遠く離れたこの日本で、テルちゃんは高齢の義母を支えながら一生懸命に生きていくことになる。しかし彼女は涙など流さない。いつもニコニコ奮闘する。どれだけ辛かったろうと思う。涙を(こら)えることは、安堵を自ら遠ざけることに他ならないのだから。
 誰かが遠ざけた安堵は、どこへ行くのだろう。それは必ず別の誰かのもとへ向かうのではないか。テルちゃんが我慢した分、彼女を見ている人々は大きな安堵を得ていた。そして、その中にはもちろん読者も含まれている。この物語を読み終えたとき、僕の胸にも、テルちゃんの祖国の海のように温かい安堵が広がっていた。こんな気持ちにさせてくれたテルちゃんに、心から感謝したい。そう思ったら、涙が出た。いくら涙を流しても、胸の中の安堵は大きくて温かいままだった。
 安堵の涙は、きっと晴れた日に吊るすテルテル坊主のようなものだろう。

「本が好き!」2009年1月号(光文社)
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