二〇一一年三月十一日の東日本大震災及びそれに伴って発生したフクシマ(「レベル7の大事故となった福島第一原発事故)から二年余り、本書を読んで痛感したのは、震災及びフクシマを経験した人々、つまり被災者=被害者の深い「哀しみ」に届く「 文学」がここにはある、ということである。
 もちろん、「震災後文学」「フクシマ後文学」と言われるものは、これまでにも古川日出男の『馬たちよ、それでも光は無垢で』(一一年七月)をはじめとして、川上弘美の『神様 2011』(同年九月)、高橋源一郎の『恋する原発』(同一一月)、重松清の『希望の地図』(一二年三月)、黒川創の『いつか、この世界で起こっていたこと』(同年五月)、池澤夏樹の『双頭の船』(一三年二月)、等々、あるいは『それでも三月は、また』(一二年二月)や『いまこそ私は原発に反対します』(同年三月)に収められた多和田葉子の『不死鳥の島』出久根達郎の『葉っぱ』など、数多く書かれてきた。
 それらの長短編作品が私たちに伝えてくれたものは、東日本大震災及びフクシマがいかに私たちの生活=日常に大きなインパクトをもたらした「想定外=未曾有」の大災害であったか、そして前記した文学者たち(先の作家たちに加えて和合亮一や若松丈太郎などの詩人たち)がいかに真摯に未曾有の自然災害や原発事故に向き合ったか、ということである。それらは、一個の文学者、または人間として真っ正直に自らが感じ思った「絶望」や「怒り」「悲しみ」、あるいは「希望」をテーマとするものが大半であったが、中には「平穏無事」な自分たちの生活=日常と現実の災害や原発事故と十分に距離がとれていないのではないか、と思われるものもあった。つまり、列記した作品の中には、「被害者・避難民(被曝者)」の「現実」に作家の想像力と感性・思想が届いていないものもあった。
 そんな「震災後文学」「フクシマ後文学」の現状を顧みたとき、本書は情緒過多な面もあるが「被害者・避難民(被曝者)」の現実に寄り添い、彼らと同じ目線でその心情の奥深いところまで想像力を届かせているということで、特に読み応えのある短編集になっていると言っていいのではないか。本書には、事故のあった原発で働かざるを得ない息子を見守る家族のことを書いた掌編の『あなたの影を引きづりながら』をはじめ、震災で多くの檀家を亡くした寺の僧侶(親子)の複雑な心情に迫った『蟋蟀』、行方不明になった夫への思いを断ち切れない若い母親の現実を描いた『小太郎の義憤』、フクシマによって離婚を強いられることになった若い夫婦を温かい目で見守る友人夫婦が主人公の『アメンボ』、地震と津波で何もかも失ってしまった結婚式場経営者の「最後のご奉公『拝み虫』、そして放射能に汚染された土や樹木、草の貯蔵を自分の土地に引き受ける老人を主人公とする表題作『光の山』の六編が収められているが、いずれも作家の「哀しみ」を深く刻んだ「優しい」眼差しによって支えられた佳作、と言うことができる。
 福島県(三春町)在住の僧侶でもあり作家でもある著者は、震災後(フクシマ後)いち早く求められて東日本大震災復興構想会議委員になるなど、東日本大震災・フクシマの「現場」に寄り添いながら、文学者としての活動を続けてきた。本書は、まさにその最大の成果と言っていいかも知れない。
 
     
  「週刊読書人」2013年6月28日号