知の最前線から 

【我が身の経営】

玄侑 宗久





 有名な大岡裁きに「三方一両損」がある。知っている方も多いと思うが、近頃こんなお裁きを見かけることは滅多にない。
 左官屋が三両はいった財布を拾ってしまったのだが、財布につけられた印から持ち主の大工が分かり、左官屋はその大工に財布を届ける。しかし頑固な大工は、一旦落としたお金はすでに自分のものではないからと受け取らない。むろん拾った左官屋も自分のものにするわけにはいけないと、越前の守のお裁きを仰ぐのである。
 もしも今の裁判だったなら、どんな判断が「正しい」とされるのだろう。本来の所有者が所有権を放棄した場合、その帰属はどういうことになるのだろう。いや、今ならきっと、裁判にはならないに違いない。だいたい落とした人間がそれはもう自分のものじゃないなどとは言わないだろうから、せいぜい5%から20%以内のお礼をあげて一件落着ではないだろうか。
 たとえば両者の意見がまとまらず、調停者を入れたとすれば、その人への謝礼の分だけ元金も減ることになる。欲望が支出に繋がるのは資本主義なら当然の原理だろう。
 しかし当時の江戸っ子には、欲得よりも振る舞いの美しさ、大人らしさが最大の問題であった。子供じみた欲張りは「稚児がえり」と軽蔑された。いわば江戸っ子としての行動の美学がこんなお裁きを発生させたのであり、けっして損しないためにお裁きを仰いだわけではない。いやむしろ、彼らは意地を通して損をしたいのである。
 落としたお金はもう自分のものじゃない、という大工と、拾ったからといって俺のものであるはずがないと言い張る左官屋。今ならまぁ好きにすれば、と言いたくなるような贅沢な悶着だが、しかし越前の守はお座なりのお裁きはしなかった。
 なんと自分の懐から一両だし、計四両になった金子を二人に二両ずつ分けることを提案したのである。簡単に云えば大工と左官それぞれの最高の所得の可能性は、各々三両。現実には双方が三両持つという事態はあり得ないわけだが、心の片隅ではそう思う可能性もないとは云えない。
 越前の守は、その心に分け入りつつ、しかも頑固なまでの彼らの心意気を一両で買うというのだろう。結局裁く越前の守も似たような江戸っ子だったのである。
 最大の可能性からすれば、二両は双方とも一両損。しかも越前の守自身も一両損しているから「三方一両損」と呼ばれるのである。
 注目したいのは、この裁きはけっして「正しさ」を導こうとはしていないことだ。大岡裁きが目指したのは、何よりも「丸くおさめる」ことなのである。
 少なくとも落語や講談に出てくる越前の守は、我が身を裁かれる人々に投げ入れてしまうような気概を感じさせる。閻魔大王は裁きに向かうまえに煮えた銅の液体を飲んだというが、裁くことの痛みを越前の守が重く受けとめていたことは確かだろう。
 会社の部下が上司に相談する場合も、基本的にはこのケースと同じく、上司の決断には従う覚悟でやってくる。その決意を重く受けとめ、部下それぞれの心を汲み取る大岡裁きを、あなたはしているだろうか。
 五十万をどうするか話し合っているうちに会議費で五十万使ってしまった、というのでは話にならない。即断の三方一両損こそが真に部下を牽引し、集団の力も利益も生みだすのではないか。

 


広報誌「未来創発」野村総合研究所(NRI)No.26  2007年5月

広報誌「未来創発」は、NRIグループの企業理念『未来創発―Dream up the future.―』に通じる社内外の情報を提供する季刊誌。2月・5月・8月・11月の年4回発行。

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