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「我が身の経営」も残念ながら最終回になった。最後に経営という言葉について、あらためて考えてみたい。
「経営」の「経」とはむろん仏教語のスートラのこと。本来は数珠やネックレスなどを貫く糸のことだが、中国には当時そういう装飾品がなかったのだろう、織物で縦糸を意味する「経」という文字に訳されたわけだが、いずれにしてもそれは生活ぜんたいを貫き、自分という存在をまとめあげる重要な「芯」に当たる。
それが仏教においてはお経というもので、さまざまな場面で指針を与えてくれるテキストになる。テキストという言葉が織物を意味するテキスタイルと似通っているのは、だから偶然ではない。そしてそのような指針に則って織物のように生を「営」むことが「経営」ということなのだと思う。
しかし仏教とりわけ禅においては、このようなテキストを重視しすぎることをとても嫌う。文字は「※指月の指」なのだから、月という現物をよく見よ、という考え方だが、それどころか『臨済録』などでは、「釈迦に会っては釈迦を殺せ」とまで云う。これはいったいどういうことか。
要するに、絶対的な真理がこれだ、と思い込んではいけないということを、禅は繰り返し繰り返し説く。指はもちろん、月だって絶対化してはいけないということである。
長年生きてくると、なにかのテキストに依らずとも、経験上自分なりの真理をかざす人は多い。それこそ頼りになる根本原理だし、周囲の人もそれを訊きたがる。世にマニュアルというものが出来てくるのもそういう事情だろう。
しかし本当は、いつでもどこででも通用する真理みたいなものを掲げた途端に、心の活動力は極端に落ちる。大切なのは、どのようなスートラも、言葉も、行動原理も、絶対化しないということだ。
そのことは、七福神に極めて象徴的に示されていると云えるだろう。なにしろ七福神というのは、あらゆる価値観を相対化する目的で臨済宗の和尚が作りだしたらしい。
あの七人を眺めていると、少なくともなにが絶対的にいいのかは分からなくなる。たとえば福耳でも、弁才天や毘沙門天は違うし、頭は長いほうがいいのかというと、恵比寿も大黒も布袋も丸顔である。それなら笑っているべきなのかというと、毘沙門天など元来いくさの神だけあって怒りの表情を崩さない。どうもあの七人には、よくよく見ても全員に共通する特徴がないのである。
ということは、なにかを提案しても全員が賛成することはなく、また逆に全員が反対することもないということだ。全員の価値観が一致し、その価値が絶対化してしまうことが最も怖いし、めでたくないという主張ではないだろうか。
自信は、もったほうがいい。しかしその自信が絶対化したらそれは心の停滞である。自分のなかでも権威になりかかるのを感じたらすぐにその考え方を相対化し、心を活発にして考え直さなくてはならない。七福神が自分のなかに住んでいると思えば、いつでも思わぬ発想が新たに湧きでるはずである。
経営とは、相手に応じ、状況に応じた自分を、その時々に立ち上げつづけることだ。一般化しなければ技術の進歩はありえないけれど、あらためて個別に向き合い、選択的にその日だけのやり方を毎日新たに獲得することこそ大事だろう。死ぬまで生きつづけることの意味は、それしかないではないか。
今後もこれでいい、絶対だと思うなら、どうぞそのままお棺にお入りください。お経くらいはあげて進ぜよう。
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| ※「指月の指」:現物(月)を指し示す表現が指だから、表現に惑わされずに現物を見よ、という教え |