ゴタゴタが仏教語だなんて、私も嫌だが、どうもこの言葉、仏教どころか私の属する臨済宗の兀庵普寧(ごつたんふねい)という禅僧に由来するらしい。
 文應元(一二六〇)年、兀庵和尚は祖国中国のゴタゴタを避けて来日する。初め博多の聖福寺に住し、そこから上洛して京都の東福寺に入るが、当時臨済禅に多くを学んでいた北条時頼の招きにより、鎌倉の建長寺に第二世として入寺するのである。ちなみに建長寺第一世つまり開山和尚は、やはり中国から来朝した蘭渓道隆禅師だった。
 禅の教えは、世間から見れば非常識と思えることも多い。兀庵和尚がどのような問答をしていたのかは知らないが、たとえば私の居た道場でも、「()の法は平等にして高下(こうげ)有ること無し。さて是の法とはいったい何だろう」なんて問答をふっかけられたものだ。
 平等な法というのは何なのかと、問答のたびに考えて答えを持参するのだが、どうにも(とお)していただけない。老師はただ鈴を振るだけ、という日々が続くのだった。
 私は苦労のあげく、とうとう透していただき、豁然(かつねん)
たる気分を味わったものだが、人によってはなかなか透らず、いらいらして批判的な愚痴を言う者も出てきたのではないだろうか。
 「まったくゴッタン和尚は難しい。なにを言っても透してくれない」
 そのうち誰言うとなく、難しく厄介なことに出遭うと「ゴッタン和尚みたいだ」「ゴッタン、ゴッタンしてるね」なんて言いだし、やがてそれが「ゴタゴタ」に縮まったというのである。ウソみたいな話だが、どうやら本当らしい。
 五年後、時頼公が亡くなったあとの幕府のゴタゴタに嫌気がさしたのか、ゴッタン和尚は中国に帰ってしまう。そして「ゴタゴタ」という言葉だけが残ったのである。
 本当は、禅の考え方はじつにスッキリしていて、世間のほうがゴタゴタしていると思うのだが、人の見方はどうにもならない。禅問答はまたチンプンカンプンなどとも云われるが、これは長崎の人が中国人の話す言葉を聞きかじり、「よく分からない」という言葉で使ったらしい。語感が明るいだけ、まだマシか……。

「中央公論」2008年3月号