本来は、仏教の経文を説いてその教えを納得させることをいうが、そのうち経文など読んだこともないのに誰も彼も説教するようになった。以前は、近所の子供にでも 説教するおじさんやおばさんが大勢いたものだが、最近ではさらに時が流れ、自分の 子供や孫にさえ説教をしなくなった。さすらった挙げ句、この言葉は今や死語になり つつあるのだろうか。
 今でも仏教界では説教師という言葉を使うし、重要な仕事であることに変わりはない。清少納言も説教好きだったようだが、『枕草子』には「説経の講師(こうじ)は顔よき、講師の顔をつとまもらへたるこそ、其の説くことの尊さも覚ゆれ」などと勝手なことを言っている。つまり彼女によれば、じっと見守ってしまうほど顔がよくないと、話していることも尊くは聞こえないというのである。
 しかしそうした勝手なご意見を恭しく聞き流し、ひたすら説教の工夫を続ける僧侶たちが昔からいたのだろう。説教をおもしろ可笑しく話すうちに落語が生まれ、また節をつけて語る工夫のうちに和讃が生まれる。そして山伏の祭文(さいもん)や平曲(平家琵琶)などの影響を受けて、近世にはいわゆる説経節、説経浄瑠璃などが流行することになるのである。なんとしても聞いてほしいという情熱が、そうした芸術の一分野まで産みだしてしまったのだろう。先日亡くなられた河合隼雄氏は、説教についての名言を残されている。曰く「説教の効果はその長さと反比例する」。たしかに至言だと思う。
 近所のおじさんやおばさんたちは説教しなくなったが、しかし今でも会社などには 長い説教を好む上司が多数生息しているらしい。いや、初めから長くするつもりではなく、自分の言っていることがなんとなく相手に届いていない、効果をあげていないとうすうす感じるので、繰り返したり駄目押しをするうちに長くなるのだと、河合先生は分析されている。これもまた、もっともなご意見だと思う。
 芸と呼ばれるほどの細心な配慮と精進とが、正しいと思うことを語る場合にこそ必要だということだろう。そういう説教だけは、生き残ってほしいものである。


「中央公論」2007年11月号