台無しの台がなぜ大じゃないのかと、思ったことのある人もいるのではないだろうか。つまり「だいなし」と耳で聞いた場合、大いにダメというふうにも聞こえかねない。しかしそれではこの言葉のさすらいの跡が、台無しになってしまうのである。
 台無しの台は、仏像が置かれた台座のことだ。どんな仏像もたいてい台座とセットで我々は拝んでいる。ほとんど一体のものとして見ているわけだが、たまたま火事などに遭うと台座や光背までは運びだせず、本体だけになってしまうことも多い。
 うちのお寺でも江戸時代に火事に遭ったとき、本尊さまや観音さま本体は無事運びだしたものの、台座と光背は本堂もろとも燃えてしまった。本尊の釈迦如来座像のほうの台座はまもなく新添されたが、観音さまは台無しのまましばらく本堂の一角に安置されていたらしい。
 実際にそのときのお姿は拝見していないわけだが、今でも掃除などのため台座からおろしてみるとすぐに分かる。仏像というのは、台座からおろしてしまうと、やけに子どもっぽく見えたり、とにかく迫力がなくなってしまうのである。
 おそらく目線の影響が一番大きいのだと思う。どこから見上げた場合に最も威厳を具え、悠揚迫らぬ眼差しになるのかがちゃんと計算されて台座に載っているため、台無しの仏像はなんだか俯いてしまい、自閉的にさえ見えてくる。
 きっと仏像を盗む場合もそうだろう。見上げて立派だと思い、台座は重すぎるから本体だけを盗んではきたものの、隠れ家に持ち帰って拝んでみるとそれほど立派にも見えない。まして翌日朝の光で眺めれば全く別な顔つきになるだろう。あれはやはり、下から蝋燭の炎に照らされているお姿、眼差しにその炎の映った状態こそが素晴らしいのだ。
 「なんだよ、台無しじゃねえか」
 泥棒の身内だってそんな悪態をつくに違いない。
 何の役に立っているのか分からない代物でも、それがなくなったら台無しになるものはいろいろありそうだ。あなたの台は、何?
「中央公論」2007年5月号