ああ、あいつもとうとうお陀仏だよなぁ、などと云う。
 むろん実際に死んでしまった場合もそう云ってかまわないが、たとえば大きな失敗などをして、死んだも同然、という場合にも使う。
 ご想像どおり、「お陀仏」とは「阿弥陀仏」のこと。やはり死への導きは阿弥陀仏におすがりするのが一番、ということから、死や、死んだも同然の事態まで「お陀仏」と呼ぶようになったのだろう。
 死ねば「ほとけ」になる。ほとけと云えばやっぱりお釈迦さまじゃないか、ということから、「お釈迦になった」などとも云う。
 これは人間の死の場合よりも、むしろ道具類などがダメになったときによく使われる。人もモノも、死ねば「ほとけ」の世界へ行くという認識は、仏教的で、悪くない。
 しかし初めて「お釈迦になった」と聞いたときには、釣りに行って「ボウズだった」と云われたときと同じくらいショックだった。ところがよくよく考えると、お釈迦は「ダメになる」ことじゃなく、成仏の象徴なのだろう。長年使った道具なども使い切って成仏するならお釈迦さまも喜ばれるのではないだろうか。
 釣果のないことをなぜ「ボウズ」と呼ぶのかは不明だが、たまたま結果的に「不殺生戒(ふせつしょうかい)」を守ったのだと解釈している。
 ところで阿弥陀仏はアミダクジにもなり、「お陀仏」にもなり、またお釈迦さまも坊主もさすらったわけだが、あまり知られていないのがお題目の変身である。「おだをあげる」というと、周りの理解に関係なく勝手に盛り上がっている状況だが、これは「お陀仏」ではなく「お題目」が起源だ。
 お題目、つまり「南無妙法蓮華経」という音は、繰り返し唱えていると周囲のことなど関係なくなってくる。それこそが三昧だから、べつにそれ自体は悪いことじゃないのだが、状況にとっては独り三昧になられたら困るだろう。だから、そこらでおだてをあげてないで、ちゃんと話し合わなくちゃ、ということになったのである。
 阿弥陀さまもお題目も、さすらうと宗派を離れるのが日本らしい。