さすらいの佛教語 目次
----------------------------------
さすらいの佛教語:第39回 【老婆心】
さすらいの佛教語:第38回 【一大事】
さすらいの佛教語:第37回 【自由】
さすらいの佛教語:第36回 【出世】
さすらいの佛教語:第35回 【ご馳走】
さすらいの佛教語:第34回 【ゴタゴタ】
さすらいの佛教語:第33回 【藪と野暮】
さすらいの佛教語:第32回 【利益】
さすらいの佛教語:第31回 【袈裟】
さすらいの佛教語:第30回 【説教】
さすらいの佛教語:第29回 【おっくう】
さすらいの佛教語:第28回 【けげん】
さすらいの佛教語:第27回 【あまのじゃく】
さすらいの佛教語:第26回 【爪弾き】
さすらいの佛教語:第25回 【つっけんどん】
さすらいの佛教語:第24回 【台無し】
さすらいの佛教語:第23回 【砂糖】
さすらいの佛教語:第22回 【お陀仏】
さすらいの佛教語:第21回 【女郎】
さすらいの佛教語:第20回 【三千大千世界】
さすらいの佛教語:第19回 【祗園】
さすらいの佛教語:第18回 【ご開帳】
さすらいの佛教語:第17回 【ふしだら】
さすらいの佛教語:第16回 【めっぽう】
さすらいの佛教語:第15回 【がたぴし】
さすらいの佛教語:第14回 【工夫】
さすらいの佛教語:第13回 【ないしょ】
さすらいの佛教語:第12回 【うろうろ】
さすらいの佛教語:第11回 【油断】
さすらいの佛教語:第10回 【阿弥陀クジ】
さすらいの佛教語:第 9回 【素性】
さすらいの佛教語:第 8回 【餓鬼】
さすらいの佛教語:第 7回 【分別】
さすらいの佛教語:第 6回 【大丈夫】
さすらいの佛教語:第 5回 【退屈】
さすらいの佛教語:第 4回 【娑婆】
さすらいの佛教語:第 3回 【観念】
さすらいの佛教語:第 2回 【貧者の一燈】
さすらいの佛教語:第 1回 【皮肉】
----------------------------------
「ないしょ ないしょ ないしょの話は あのねのね」と歌われる。そのことからも、内緒話はすぐに人に話されてしまうことがわかる。あれはじつに社会教育になる歌である。
しかし本来「ないしょ」というのは、「内証」という密教用語が変化した言葉で、「内緒」や「内所」というのは当て字である。
他者が知り得ない「さとり」の世界を、秘密といい、内証といった。なぜ知り得ないのか。それは、言葉で表現できないからである。
しかしむろん、同じ境地に達すれば、それは言葉にできなくとも通じあってしまう。『ないしょ話』という歌も、「にこにこ にっこり ね 母ちゃん」と続く。本当は、この「にっこり」でしか通じないものが「内証」なのである。
ところが歌はその後、「お耳へ こっそり あのねのね
/ 坊やの おねがい きいてよね」となる。なんだ、話してるんじゃないか。要するにここでは、母ちゃんと坊やの二人だけしか知らない話を「ないしょ」と呼んでいるのだ。ずいぶんさすらったものである。
言葉にできない「さとり」の世界が本来の「内証」だと申し上げた。なぜ言葉にできないのだろう。
それは簡単に云えば、「さとり」は全体性の問題であり、言葉は常に全体性を分断する道具だからである。もっと云えば、言葉を発する者も全体性の内部にいて全体性に影響を与えている。そこにはいわば、客観的な事実など存在しないのである。体験的に感じることはできるが、それは言葉にした途端に他人事になってしまう。「さとり」は常に体験的な真実だということだろう。
内証はずいぶん変化し、後には身内や家内、暮らし向きなどの意味にも使われる。「御亭主はまだか。御内証は」という具合である。また金まわりの意味に使われた例もあるようだ。もしかして、「ないしょ」と云いながら話すから、意味が変質しても知られにくかったのだろうか。
どうも『ないしょ話』の坊やは明日の日曜、母ちゃんに何かを買ってほしいようなのだが、本当の内証はもっともっと素晴らしい賜り物のはずである。