第九回



 素性

 よく、氏素性(うじすじょう)などと云う。それがわからないことを、馬の骨に喩えたりもするが、じつは馬ほど素性の明らかな生き物はいない。現在のサラブレッドは、すべて四頭の先祖からの流れで辿れるらしい。馬にはいわゆる血統書があるから、我々よりよっぽど素性が明確である。まぁ骨になってしまえばわからないということかもしれないが、それなら別に馬である必要はない。どこのネズミの骨かわからない、というほうがよほどわからなさそうだ。
 人間に血統書はない。しかしそれに近い発想で人間を区別したのがカースト制度である。そこでは種と姓という先天的な要素で人を区別し、それらを合わせてサンスクリットでゴートラ(gotra)と云った。それが「種姓」であり、本来はこれを「すじょう」と読んだ。カーストのような制度のない国に言葉が移入されたため、いつのまにか人が元々(素)もっている性(さが)という意味で「素性」と書くようになったようだ。
 しかし仏教では、素性はみな同じ仏性だと思っている。心の底に潜む無明のさらに奥に、同じ光明があると考えるのである。これを「光明蔵」と云う。
 このことは、人類のDNAが九九・九九%まで同じだという事実によって裏付けられたかに見えた。
 しかし最近では、人の違いを識別するためにもDNAが利用され、DNA鑑定なども行われている。つまり、どこの馬の骨かも、今なら特定されるのである。
 「今は昔、天竺に一人の人有り、種姓高けれども身貧しくして世を過(すご)す力無し」(『今昔物語集』巻第四)などと昔は書かれたわけだが、今やこの素性の根拠を、遺伝子に求める時代なのだろうか。遺伝子の研究そのものは今後も進んでいくのだろうが、その二次利用がひどく気にかかる。デザイン・ベイビーやES(胚性幹)細胞使用という発想に、すでに優生学復活の芽が潜んでいそうな気がする。
 釈尊は、人を区別するのは唯一行ないに依ると考えた。彼があれほど「種姓」に拘らなかったのは、たぶん人間の「素性」を信じたからだろう。仏教的には「種姓」と「素性」はかくも違う。この意味が近づくことは、怖いことではなかろうか。

「中央公論」2006年2月号