第七回


分別

 ゴミは「ぶんべつ」して出さなくてはいけない。しかし仏教語としてのこの文字は、当然「ふんべつ」と読む。分別(ふんべつ)は我々も普通に使っている言葉だが、これも元々の意味からするとずいぶんさすらってしまった。
 「いい分別ある大人が、いったい何ですか」などと叱る場面も見かけるが、現在の我々は、分別は当然大人が身につけるべき思慮や判断だと思っている。思慮分別という言葉もあるし、分別盛りとも云う。これはどう考えても、分別をもつことを褒め勧めているのである。
 しかし、本来の分別は、サンスクリットの「カルパ」または、「ヴィカルパ」などの訳語で、これは悟りの智慧を示す「無分別智」の反対語だから、凡夫の間違った判断のことを云う。
 要するに仏道修行者は、いっぱしの分別を身につけるために修行するのではなく、逆に分別を捨てるためにこそ修行するのである。子供から大人になるに従って分別を身につけていくことは確かだが、それを仏教は、ロクなもんじゃないと考えているということだ。
 思えば、我々は大人になるにつれて「どっちが得か」「どっちが綺麗か」あるいは「どっちが正しいか」なんてことばかり身につけていく。その落ち着かなさを、兼好法師は次のように書く。「世にしたがへば、心、外の塵に奪はれて惑ひやすく、人に交はれば、言葉よその聞きに随ひて、さながら心にあらず。人に戯れ、物に争ひ、一度は恨み、一度は喜ぶ。その事定まれる事なし」(『徒然草』第七十五段)
 少しわかりにくいかもしれないが、要するに人は世間や相手に応じて一喜一憂してばかりでは仕方ないだろうと、法師は云いたいのだ。そこには「分別みだりに起こりて、得失やむ時なし」だと云う。
 兼好法師はその後、『魔訶止観』まで引用して、分別を増長させる生活・人事・伎能・学問の一切に関わるなと説く。そしてその諸縁を放下した状態こそ「つれづれ」だというのである。「つれづれ」はよく「手持ちぶさた」「所在ない」だどと訳されるが、たぶんもっと深い。じつは坐禅も、つれづれなるままに分別を起こさない練習なのである。