第四回へ
暮らしの中の仏教語 〜その5〜
檀那と坊主

意味いつやら変化


 「社長、ちょっと寄ってくださいよ」なんて今の客引きは言うが、昔は「旦那さん」と呼びかけた。この「旦那」、本来は「檀那」と書く。梵語のダーナパティの音写である。
 もともと、仏教教団を経済的に支えた布施者のことだから、まあ今の使い方もそれほどおかしいわけじゃない。ただ同じお金なら、キャバレーなどに注ぎ込まないでお寺に寄付すればなお素晴らしいということだ。「『檀那』と『坊主』」
 檀那は、もっと細かくいうと、檀という木と、その周りに生える那という草の関係性のことだった。那は檀があるから日陰ができてうまく生育し、檀は那があるおかげで地面の湿気を保ってもらえる。理想的な布施しあう関係なのである。
 そのことからもわかるように、布施は相互的でなくてはいけない。財施に対するお返しの法施がなくてはならないのである。
 そのことを忘れると、「坊主」などと呼ばれるようだ。「坊主」がいつから悪い言葉になったのかは定かじゃないが、それはきっと悪い僧侶が現れたときからだろう。もともと人を直接呼ばず、住んでいる場所にちなんで呼ぶのは丁寧なことだった。だから「坊主」も「お前」も、本来は悪い言葉じゃない。「御前様」のころはよかったのである。
 しかし、人々の期待に応えないような僧侶が増えたからだろうか、僧侶にあるまじき僧侶、という意味で、「坊主」をさらに逆転させた「主坊」の複数形、「ずばら」なんて言葉も生まれる。やはり檀と那との関係性を忘れた結果なのだろう。
 一般の家だって、キャバレーに行って「ごぜん様」になったら、「お前このやろう」と言葉の意味は変わってしまう。よくよく心しなくてはならないと思う。
 それにしても、男の子のことを「坊主」と呼ぶのはなぜだろう。「うちの坊主は手癖が悪い」なんて、レストランの隣の席から聞こえてきたらギクッとする。そりゃあギクッとするほうが悪いのだが、なにもわざわざ「坊主」と呼ばなくてもよさそうなものだ。
 「檀那」と呼ばれたら何か魂胆があるものと用心しなくてはならないが、「坊主」の場合は、そう呼ばれないよう用心したいものだ。


福島民報 2005年2月5日 文化面