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| 仏教では、すべては「無常」といいます。 なぜ、無常なのでしょうか。 それは、すべてが「不完全」だからなんです。 もしも完全だったら、変化がありません。変化がないということは、そのまま停止しているということです。 しかし、この宇宙の中で、存在の全体の中で、停止しているものは何一つとしてありません。 すべてが不完全なのです。 すべてのものは不完全であるために、より安定と調和をめざしています。 ボールが転がっていくのは、不安定な状態から安定を求めているからです。 それが、すべての存在のありようです。 安定を求めて、どこまでも転がっていくのです。それが宇宙であり、生命のありようなのです。 人間も、不完全な存在です。 不完全だからこそ、少しづつ進歩していくことができるのです。 そして、進歩というものはやめる時点がないのです。 私たちは死ぬ瞬間まで、進歩していくことができるのです。 ただ、そうかといって、何も大きな願いを立ててがんばる必要はありません。目標として大事なのは、 「昨日よりは今日、ましな人間になるように」ということです。 お釈迦さまは、「順次に少しづつ、その都度、磨きなさい」と言われました。 悟ろうか、人を救おうとか、大胆なことを願うよりは、少しづつ、その都度、その都度、まず自分という人格を磨いていこうと努めるのです。 進むのは常に一歩一歩からです。 そうすると、一つ一つ達成感が出てきます。 人生というものは、具体的には、目の前の問題を一つ一つ解決するしかないでしょう。 そういう生き方であれば、難しい事態が生じた場合も混乱に陥ることはなくなり、挑戦できるのだからかえっておもしろい。うまくいかないということが、かえっておもしろくなってしまうのです。 |
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| 願いや目標をもつことが、一概に素晴らしいわけではありません。 あれこれと願いを立てて生きていこうとするのは、いまの自分を受け入れられないことの現れということもできるのです。 いまの自分を否定しているから、素晴らしい願いをもとうとすることがあります。 願いをもつことで、自分の暗さや惨めさを正当化しているわけですね。 願いをもてば「自分はがんばっている、前向きに生きている」と思うのです。 でも、結局のところ、いまの自分自身の否定から出発しているのですから、なかなか成功しないのです。自分を否定して、生き生きとしていない人に、人は期待することはできないのです。 また、願いが妄想によるものであったり、あるいは怒りの心によるものであったとき、それはうまくいきません。 その願いが、手かせ・足かせになり、おもりになってしまうのです。 おもりをつけて進もうとすれば、うまくいかないのは当然ですね。それは、とてもつらい進み方です。 願いをもつことによって、逆のそれを達成しなければという思いに縛られてしまうと、人生の探求者、冒険者にはなれません。 私たちは、歯を食いしばって、苦しんで努力することが必要だと思うことがあります。 けれども、そんな生き方よりも、楽々とたんたんと川が流れるような生き方があるんです。 「暗闇から光へ行く道」ではなくて、「光からさらなる光へ行く道」があるのです。 小さな子を見てください。自分で何かできたことに、とても喜びますね。 シャツのボタンをはめられたとか、電気のスイッチを押せたとか、自分で靴を履けたとか、そんな些細なことにおお喜びです。 あるとき、お母さんと小さな子どもが二人で歩いていました。何気なく見ていると、子どもが道の真ん中にいきなりしゃがみこむのです。 「どうしたんだろう」と見ていると、なんのことはない、ただの石ころを見つけただけなのです。でも、子どもはこれがおもしろくて夢中になっているようです。「いろんな石ころがあるんだなあ」と、じっと見ているのです。 その子どもの興奮とか、喜びが私にも伝わってきて楽しくなってしまいました。 私たちは、大人になっても、子どものように無邪気な喜びを感じられたら、この一日一日が、感動の人生なのです。 この一日一日を大事に生きていくことこそが、感動の人生なのです。 |
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| 「ダーナ」2006年冬号 | |||