白隠の庶民説法(四)
「渡唐天神(梅天神)図」 〜貴と賎とは、学ぶか学ばざるかはにあり〜


長興寺 松下宗柏
渡唐天神(三島市・佐野美術館蔵) JR原駅から東海道を沼津方面に歩いて十分程、信号を渡ると右側に「白隠禅師生誕之地」と彫られた自然石が立っている。通山宗鶴老師(松蔭寺・円福寺)の筆である。すなわち、白隠禅師の実家・沢瀉家(おもだかや・長沢分家)の屋敷跡で、「産湯の井戸」と伝えられる古井戸が現存している。その裏側、中道(なかみち)を隔てて、時宗のお寺、西念寺がある。地元では「天神さん」と親しまれている。鎮守社が北野天満宮だからである。白隠晩年の自伝『壁生草(いつまでぐさ)』に、次のような記述がある。

 岩次郎(白隠の幼名)生誕に因み、「老僧、昔若年の時、母人摩頂して親しく告げて曰く、なんじ須らく北野の神を敬し奉るべし。つらつら指を屈して、なんじが誕日を考うるに、貞享第二丁丑(ていちゅう)の歳(一六八五)の臘月二十五鶏鳴丑(十二月二十五日明け方の丑の刻)なり。年月日時ともに是れ丑。往々に言う。二十五日はかたじけなくも丑天神(北野天満宮)の後縁日なりと。然れば北野に因由有るにあらずや。」

 また、焦熱地獄かたの解脱を問う岩次郎への母の応えとして、

 「先ず待て、然らば教ゆべきぞ。なんじ須らく常に北野を敬し奉るべき。否(やだ、私)は悦んで首さし延べ髪を梳き持仏堂を掃除し御影(みかげ、北野天満宮の神像)を掛け、香華称名、しばらくも怠ること無し。其の夜、にわかに天神経(寺小屋の教本にあった)を習う。それより毎夜、丑の時より起き、焼香作礼して出離を祈る」

 ちなみに、松蔭寺で得度して間もなく入門し、五年間の小僧生活を過ごすことになる大聖寺の鎮守社も北野天満宮であり、因縁深さを物語っている。
 北野天満宮の御祭神は、言うまでもなく。菅原道真公。宇多天皇のもとで文章博士として、また右大臣として重用されていたが、醍醐天皇の世になった、延喜元年(九〇一)、五十七歳の時、讒言により太宰府へ左遷される。

 東風(こち)ふかば 匂ひ起こせよ梅の花    主(あるじ)なしとて、春な忘れそ
御神号「天満大自在天神」(沼津市・浄因寺蔵)
 二月一日、京都出立時にうたったという、この和歌は余りに有名である。後世、その梅の片枝が配所まで飛んで行ったという「飛び梅伝説」が語り伝えられ、大宰府天満宮の本殿脇の「飛び梅」は、今なお清香を放っている。二年後、道真公は失意の内に大宰府で没したが、遺体を乗せた車を引く牛が動こうとしなかったという。その後、京都では、清涼殿で落雷に打たれて寵臣が死に、二人の皇太子が相次いで薨じるという異変が続いたことから、「雷神」として、また「怨霊」として畏怖されるようになった。かくして、道真公は「梅天神」「牛天神」であるとともに、御霊(ごりょう)信仰の神となり、北野天満宮や上御霊神社が創建されることになる。
 平安時代になると、「無実の罪を救う正真の徳の守護神」、そして「学問の神さま、和歌の神様」として信仰されるようになった。それは、道真公が文章博士の家門に生まれ、儒教、漢詩文、和歌に通じていたからである。今日では湯島天神のように、すっかり「合格祈願」の神様となった感がする。
 白隠の「渡唐天神図」は、この学問の神様であり、室町時代、五山の僧によって創られた逸話にもとづいていると伝えられている。
 中国宋代のこと、ある夜、徑山の無準師範禅師のもとに北野天満天神が、「自分は日本の菅原道真である」と名のって現れた。「唐衣、不織而北野之神也、袖尓為持梅一枝」という和歌を示すと、無準は禅の蜜旨を授けた。道真は開悟し、証(あかし)の偈と共に梅花紋摺箔掛絡を贈られたという。源義経や西郷隆盛の例と同じく、非業の死を遂げた英雄は死なせたくない、永遠であってほしいというのが願いである。
 江戸中期になると、寺子屋教育が普及し、庶民の子供に読み書き算盤を教えた。梅の花咲く書き初めの頃、寺子屋には「梅天神」の掛け物が掲げられ、勉学精進、学力増進を祈願したことは想像にかたくない。その寺子屋の子供たちにふさわしい意匠として、御神号のように「天満大自在天神」とするのではなく、流行の絵文字を使い遊び心を込めて、「渡唐天神図」を描き与えたのではないかと思うが、いかがだろう。そこには、五山の場合のように漢詩ではなく、道真公の和歌が添えられていることは、注目すべきことである。

 唐衣 おらで北野の神ぞとは     袖に持ちたる 梅にても知れ

 ワれ頼む人をむなしくなすならば     あめが下にて名おやながさん

 梅だにあらば ワれなたつねそ


 「渡唐天神」逸話や「遠羅天釜(おらでがま)」の由来、文字絵のおもしろさについては、芳澤勝弘先生の『白隠−禅画の世界』(中公新書)、そして花園大学・国際禅研究所のホームページに詳しく紹介されているので、参照していただきたい。ここでは、白隠の学問への姿勢を付け加えさせていただく。

 佐野美術館(三島市)の図録に、白隠の青年時代の備忘録『文圜玉塵(ぶんえんぎょくじん)』(館所蔵)が掲載され、次のような解説が付されている。

 昭和二十数年頃、原町(現沼津市)某家の故紙中より発見された冊子で紙縒(こよ)りで綴られ原型をそのまま残している。手紙の文例が列記され、その内容から、日頃目にとまった名文を参考のためメモしたものであろう。三十代頃の狂草体である。
 最後のページに、「水積んで淵と為し、学積んで聖と為す。唯、貴と賎とは学ぶか学ばざるかにあり」と記されている。白隠の信念とともに、この生活態度がにじみ出ている。
『文圜玉塵』(三島市・佐野美術館蔵)
 昨秋、縁あって、チベット仏教のゲシェ(哲学博士)と出会う機会があった。南インドにあるデブン・ゴマン学堂では、今日でも、二千人近くの学僧が、日夜、唯識学。倶舍論、龍樹の論集、仏教論理学などの基礎仏教学を学んでおり、ゲシェになるまでは十五年間を要し、その後、密教を修することになるという。近年、欧米のみならず日本でも、若い人々が、仏教哲学に裏付けされて、「慈悲と智慧の教え」を説くチベット仏教に関心を持ち始めている。
 白隠禅師は、「教外別伝、不立文字」の宗門に身を置きながらも、仏教哲学にも研鑚されたことが、「坐禅和讃」からうかがい知ることができる。慚愧あるのみ。勉旃。勉旃。  

 
「臨済会報」平成18年3月1日発行 第223号
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『白隠−禅画の世界』
【目次】
序章 白隠という人
第1章 富士山と白隠
第2章 キャラクターとしてのお多福と布袋
第3章 多様な画と賛
第4章 さまざまな仕掛け
第5章 南無地獄大菩薩―白隠の地獄観
終章 上求菩提、下化衆生
禅画はむずかしいと言われる。
なかでも、江戸中期に臨済禅を再興した白隠は、特異な画風で知られ、これまで誤って理解されることも多かった。
しかし、禅画とは本来「言葉で表現できない禅的メッセージ」を伝えるものである。
白隠の禅画も、彼の事跡や著作、その時代背景を丹念に検証することによって、そこにこめられた意図がストレートに浮かび上がってくる。
多様な作品を読み解きながら、禅画の世界へいざなう。