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| 決まりは守らなくてはならないのでしょうか。もちろん「守るのが当たり前だ」という人もいますが、「決まりは破るためにあるんだ」と居直る人もいます。今回は「六波羅蜜(悟りの岸に至る六つの方法)」の中の「持戒」について考えてみましょう。 |
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もともと仏教では、在家は「五戒」を守り、出家は、未成年ならば「十戒」を持(たも)つよう決められていました(『望月仏教大辞典』)。でも何で面倒な規則を細々と規定しなくてはならないのでしょうか。それは「必要な発明の母」だからなのです。つまり、仏教教団内部の規律を維持していくための一種のマニュアルとして、戒は必要だったのです。
「持戒」というのはどういう意味かと言えば、「悪いことをしないのを持戒と名づける(若不作悪、是名持戒)(南本『涅槃経』巻三一)とある通りです。これと関連した教えに「七仏通誡の偈(過去七人の仏たちが守るよう人々に戒めた偈)」というのがあります。「悪いことをせずに、善いことを行なって、自分のこころを浄らかにするのが、仏がたの教えだ」(『法華玄義』巻二上、『出曜経』二五)というものです。
そして、この偈を踏まえた、とても有名な問答があります。 (ちょうかどうりんぜんじ)(七四一〜八二四)と中唐の詩人として知られる白居易(楽天・七七二〜八四六)との問答です。
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白居易の質問、「仏法の根本義とはどんなものですか」。師、「もろもろの悪いことをせずに、もろもろの善いことをすることだ(諸悪莫作、衆善奉行)」。白居易、「三歳の子どもでもそんなことは言えます」。師、「三歳の子どもでも言えるが、八十歳の老人でも行えない」。(『景徳伝燈録』巻四) |
何となく「ああ、なるほど」と納得してしまいますが、「持戒」の本音がその実践の有無にかかっていることを端的に示しています。在家・出家を問わず、善悪のけじめをつけ、みんなが善いことをして悪いことをしなければ、もめ事や不祥事は起こらないでしょう。そのために存在するのが戒ということになるのです。
ただ問題は、善と悪とをどこで見分ければ良いかということです。判断が難しいので、釈尊が親切に項目として纏めてくれたのが戒だともいえます。世界の状況は時間と共にどんどん変化していっています。戒の中には、飛行機に乗って善いかどうかとか、携帯電話を使用して善いかどうかといった、現代的な問題に対する解答は全くありません。その意味では、時代に即応した戒の制定が必要だということにもなります。ただし、どんなに戒を完備しても、真の求道心や向上心が根底にないならば、単なる手枷足枷としてしか意識されなくなってしまうことでしょう。
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では、「持戒」は単に在家・出家を含む仏教教団の運営を円滑にし、内部で揉め事が起こらないようにするための規律としてだけ存在しているのでしょうか。もちろんそうではありません。「持戒」は仏教の基本的な教義に深く関わっているのです。
仏教では、「持戒によって禅定を生みだし、禅定によって智慧を発らかにする(因戒生定、因定発慧)」(『楞厳経』巻六)とされています。つまり、仏の智慧を明らかにするためには、心の安定である禅定が必要であり、禅定を得るためには、生活を整えるための規則である戒を守ることが大切な条件だということなのです。戒は、智慧を得るために心を乱す要素を取り除き、心に平安をもたらす基礎ということになります。しかし、これを逆に言えば「心が平安であれば、苦労して戒を守らなくてよい(心平何労持戒)」(『六祖壇経』疑問第三)という理屈になります。汾陽善昭(ふんようぜんしょう)禅師(九四〜一〇二四)が「執着する心が無いのだから、どうして戒を受ける必要があろうか」(『汾陽語録』巻中)と言ったのもこの立場を示しています。 |
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唐の帰宗智常(きすちじょう)禅師は、「仏とは何か(如何是仏)」と問われて、「お前がそれだ(即汝便是)」(『景徳伝燈録』巻一〇)と答えています。「心こそが仏(即心是仏)」(『馬祖語録』)であり、「修行したり証ったりしなくても、もともと円成(かんぜん)(不假修証、本自円成)」(『人天眼目』巻三)なのです。そこに「持戒」が入り込む余地などありません。
『老子』に「大道廃れて仁義有り」(第一八章)という言葉があります。仁義とか道義といった立派な徳目は、本来要らぬものなのに、偉大な道(しんり)がダメになったから作られたのだ、という皮肉めいた発言です。これをそのまま仏教の心と戒に当てはめるならば、心がダメになったから「持戒」が設けられたということになります。「仏心廃れて持戒有り」なのです。
だから、丹霞天然(たんかてんねん)禅師(七三九〜八二四)は、戒を説くのを聞いて、「耳を掩って逃げだした」(『碧巌録』第七六則)のですし、仰山慧寂(ぎょうさんえじゃく)禅師(八〇七〜八八三)は、「持戒していますか」と質問されて「持戒していない」と答えたのです。(『仰山語録』)。
ただし、「心地に非が無いのが自性の戒である」(『六祖壇経』頓漸第八)とあるように、戒は仏心の一側面が現れたものですし、「持戒」をしないというのは、戒に執着する執われの心を否定しているだけです。戒を破って何をしてもよいということではありません。達磨大師の著作とされる『少室六門』に、「仏は持戒しないが、戒を犯しもしない。…仏は善いこともしないが、悪いこともしない(仏不持戒、仏不犯戒…仏不造悪)」とあるように、禅宗でも破戒や悪行を肯定しているわけではないのです。本物の悟りの裏付けがない「破戒」は単なる自堕落です。 |
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では話を最初に戻して、決められたことは守らなくてはならないのでしょうか。
理想的な状態をピタリと示した言葉が、孔子の『論語』にあります。
心の欲する所に従いて
 矩(=きまり)を踰えず。
守ろうと意識しなくても、自然に道を外れないようになれるというのです。孔子は七十歳で達成できたと言います。そうなれれば戒も不必要でしょうが、酒を減らせずに、年々γ−GTPの数値が上がり続けている私には、到底真似のできないことです。生涯「不飲酒戒」との格闘が続きそうです。
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| ※γ-GTP(γグルタミルトランスペプチダーゼ)は、肝臓の解毒作用に関係している酵素です。肝臓や胆管の細胞がこわれると血液中にγ-GTPが血液の中に流れ出てくることから、「逸脱酵素」といわれます。そのため、γ-GTPは肝臓や胆管の細胞がこわれたことの指標として利用されています。 |
| 「法光」秋彼岸号 平成19年 No.232 |
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