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| 夏は暑いと分かっていても、「言うまいと思えど今日の『暑さ』かな」。私が住んでいる九州は我慢ができない暑さです。仏教語での「我慢」は「慢心」の意味ですが、今日は普段使っているガマンのお話です。 |
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我慢といえば、先だって、声帯にポリープができ、切除のために入院して、「無口」の我慢をさせられました。
主治医は「大きな声でお経をよむから、職業病でしょう」と言ってくれましたが、家族からは「単なるしゃべりすぎだ」と冷たい言葉。
小さなポリープで、大した手術ではなかったとはいえ、術後三日間は絶対に喋ってはならないとのこと。ベットの脇に「発声禁止」という紙を貼り付けられ、大人しく入院していました。でも、お喋りの私にとっては我慢我慢の長〜い時間でした。仕方がないので、時間つぶしに文庫本や新書本をドッサリ持ち込んで読んでおりました。
ところが退院後、左腕から左肩、背中に異常な痛み。何でだろうと不思議でしたが、そういえば手術後三日間、点滴があり、看護婦さんから「どちらの手にしますか」と訊かれて、面倒くさいので全部右腕に打ってもらっていました。点滴中、右手が使えないので、左手だけで本を持ち、ページをめくり、不自然な姿勢を我慢しながらズ〜ッと読んでいました。たぶんその影響が出たのでしょう。
玄侑宗久さん(芥川賞作家)にメールを出し、今回の入院で得た教訓として、
「点滴は左右均等に致しましょう。」
と書きましたら、返事が返ってきました。
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今回の教訓は私から見ますと、「入院中は、あまり読書しないようにしよう」と読めますが…。 |
確かに仰る通りです。
ともあれ入院中は我慢の「無口」でした。 |
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禅宗のお坊さんと言えば、厳しい修行を積んでいて「我慢強い」というイメージがあるようです。
織田信長から焼き討ちされた恵林寺(山梨県)の快川紹喜(かいせんしょうき)禅師(?〜一五八二)は、山門に端坐し、火中で「心頭を滅却すれば火も自から涼し」と言って焼け死んだといわれます。無心に成り切れば火も熱くないというのですから、とても我慢強く見えます。
考えてみれば、仏教では戒律の遵守を求めているのですから、我慢するのは使命なのかもしれません。
とはいえ、地球温暖化も手伝ってか、クーラーなしでは熱射病になりそうな暑さです。我慢できない暑さに、禅宗ではどう対応するのでしょうか。これに関わる有名な公案があります。『碧巌録』の第四三則にある「洞山無寒暑(とうさんむかんじょ)」という問答です。先の快川禅師の「心頭滅却」の言葉もこの公案の評語を踏まえています(更に言えば、評語も晩唐の詩人、杜荀鶴〔とじゅんかく〕の詩からの引用です)。
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僧が洞山良价(とうざんりょうかい)禅師(八〇七〜八六九)に質問した、「暑さ寒さがやってきたら、どうやって回避しましょう」。洞山、「どうして暑さ寒さがないところに行かない」。僧、「暑さ寒さがないところとは、どんなところですか」。洞山、「寒い時には闍黎(おまえ)を凍え切らせ、暑い時には闍黎を暑くなり切らせる」。 |
暑い時には暑さに徹せよ、というのです。やはり暑さを我慢し、根性を出して頑張るのが禅宗式なのでしょうか。 |
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この公案と似た話で、理解の参考になるものがあります。中国北宋時代の五祖法演(ごそほうえん)禅師(?〜一一〇四)とその弟子の圜悟克勤演(えんごこくごん)禅師(一〇六三〜一一三五)との会話です。
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五祖禅師は、暑い真っ盛りに何時も袈裟を着けて坐禅し、扇を使おうとしなかった。圜悟が質問した、「和尚はどうして扇を使われないのですか」。五祖、「お前には分からないだろうが、私は時節に順って〔身体を〕保愛(だいじに)しているのだ」。そこで理由を尋ねると、五祖は言った、「天地の現象として四季があるからには、暑さ寒さがある。暑さ寒さの中にいるからには、それを受けいれなくてはなるまい。お前が寒さから逃れたり、暑さをいやがったりするならば、その時候に逆らうことになる。これが老僧(わたし)の、時節に順って〔身体を〕保愛するということなのだ」。(『大慧普説』巻一・政信寺如山主請普説) |
暑い時には暑いまま、寒い時には寒いまま、それをありのままに受けいれることこそが大切だと五祖は言うのです。あくまで自然体であり、そこには特別に我慢するという意識はないのです。三祖僧 禅師が、「悟れば好いも悪いもない(悟無好悪)」(『信心銘』)と述べている通り、暑さ寒さも好き嫌いもすべきではないのです。 |
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こう言いますと、「では、クーラーをつけず、熱射病になって死ねというのか」という御仁もおられるかもしれません。もちろん禅もワンパターンではありません。
圜悟は後に、この五祖の発言をそのまま弟子の大慧宗杲(だいえそうこう)(一〇八九〜一一六三)に話し、「考えてみるに、五祖和尚の言われたことは正しいな」と評価します。それを聞いた大慧は、次のように述べます。
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私はそうは思いません。私にも時節に順って〔身体を〕保愛するやりかたがあります。寒い時には爐(いろり)の火をおこし、暑い時には一本の扇をもって〔あおぎながら〕陰涼(すず)しいところに坐る。これが私の、時節に順って〔身体を〕保愛するというやりかたです。(同前) |
それを聞いた圜悟は笑いながらそれを認めたといいます。暑ければクーラーをかけ、寒ければストーブを焚く、これも自然体です。唐代南嶽懶 (なんがくらんさん)和尚の歌に「腹がへったら飯を食い、疲れたら眠る。愚か者は私を笑うが、智者には分かる(饑来喫飯、因来即眠。愚人笑我、智乃知焉)」(『景徳伝燈録』巻三〇)とあるのと同じことでしょう。
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「では、結局どうすればいいの」と思われるでしょうか。「随処に主と作れ(随処作主)」(『臨済録』示衆)という臨済の教え通り、我慢するなり、クーラーをつけるなり、自分で決めれば良いだけです。
「いいかげんだなあ」と言われるかもしれませんが、その通り、いいかげんなのです。そういえば前回「春彼岸号」の文章、校正ミスで「日想観」が「日相観」となっていました。いいかげんの極みでしょうか。笑うなり怒るなりご自由にどうぞ。 |
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| 「法光」うらぼん号 平成19年 No.231 |
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