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近ごろ日本語が乱れていますが、その一つに、同じ「しゅぎょう」と読まれている、「修業」と「修行」の混用があります。
「修業」はもともと「しゅぎょう」と読みます。「業」という字が使用されているように、「生業」に関する技能や知識を学習することを意味しており、「板前修業」や「大工修業」などがそれに相当します。
一方、「修行」は、仏教で行なわれている精神的な修養鍛錬の類を指しています。仏教は、家族や職業などの俗世を捨てた出家集団を基礎としており、檀越からの布施や乞食で命を繋ぎながら真理を求めます。ですから、その「修行」は職業訓練の「修行」とは本来、一線を画しているのです。 |
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ただ、大乗仏教の立場から見るならば、「修行」が「修業」より価値が高いというわけではありません。『法華経』に基づいた、次の様な有名な言葉があります。
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すべての日常生活や職業は、みんな真理に背いていない。(一切治生産業、皆与実相 不相違背。)(『雲門広録』巻下、『碧巌録』三三則) |
俗世間の人たちの生活が、仏教の真理そのものだというのです。出家にしろ在家にしろ、同じ人間なのですから、本当に自分のすべきことに努力するならば、行き着く先は同じ場所だということでしょう。
もちろん、これは理屈としてそうだという原則論であり、在家にしろ出家にしろ、無条件に現在そのままの状態で良いと言うわけではありません。禅宗でよく使われる言葉に「だらけて怠けた中から得られるものなど何一つ無い(未曾有一法従懶惰懈怠中得)」(『汾陽禅師語録』)というものがあります。僧俗を問わず、そこには当然、怠けないで「精進」することが求められるのです。
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「精進」は「六波羅蜜」の中の1つですが、簡単に言えば「努力する」ことを意味します。大学で生徒さんに「六波羅蜜」を列挙してもらった時、答案の間違いで一番多く見られるのは、「精進」を「精神」と書き誤ったものです。確かに字面は似ていますが、それこそ試験前の「精進」が足りないのでしょう。
仕事でもスポーツでも、何につけ精進が必要なことは言うまでもありませんが、仏教でも「精進を離れず、懈怠の心が無いならば、いつかは証りを得られる(不離精進波羅蜜、無懈怠心終得証)」(『仏母宝徳蔵般若波羅蜜経』巻下)と精進努力は悟りの彼岸に至る大事な要素として重視されているのです。 |
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どうして努力精進が仏教で特筆して大切にされるかといえば、仏になるためには元来、気が遠くなるほど長い年月の修業が必要だとされているからです。
大乗仏教では、菩薩が発心してから成仏するまでに、五十二の階段を上る必要があるとされています。(『法華玄義』)。そして、スタートしてから段階を経てゴールするまでの時間は「三阿僧祇劫」だとされています。
「三」は数字も三、「阿僧祇」は「億」や「兆」と同じ数の単位で10の59乗です。「劫」は時間の単位で数十億年に相当すると言われます。つまり、たった今、修行を始めた人が、仏になるまでには、「三」×「10の59乗」×「数十億年」の時間がかかるとされているのです。怠ける暇などあるはずがありません。
努力の積み重ねこそが大切であり、「怠けたら悟りなど無い(若起懈惰、菩提則無)(『大宝積経』ことになるのです。) |
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でも、俗世の「修業」にしろ、仏道の「修行」にしろ、もちろん努力精進が大切なことは分かっていても、ついつい怠けてしまうのが私たちです。
仏教の言葉の中には、怠ける人にとって都合の良いものもあります。たとえば「知足(足るを知る)」(『仏遺教経』)などは、精進を途中でサボり「そうむきにならないでも」と言う口実を与えかねません。
しかし、「知足」というのは、もともと努力精進といった仏道修行について用いる言葉ではありません。『維摩経』には、
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俗世間の事柄については、欲が少なく足ることを知るし、出世間については厭うことなく求める。(菩薩行第十一) |
と書いてあります。この言葉通り、「知足」とは、あくまで俗世の金や名誉などに対する過度の欲望を戒めたものであり、仏道における精進努力を怠けるのを正当化するものではないのです。禅宗では、「まだ足りないのに満足の心を起こすのは、とても重い病気だ(於未足中、生満足想。此病尤重)」(『大慧禅師語録』巻二〇)と言われています。
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ところが、その禅宗が、一方では「知足」どころか、精進努力の必要など全くないという意味の言葉を発しているのです。
たとえば、六祖慧能禅師は「凡夫がそのまま仏だし、煩悩がそのまま菩提だ(凡夫即仏、煩悩即菩提)」(『六祖壇経』般若品第二)と言っています。スタートした凡夫の時点で既にゴールの仏と同じだと言うのですから、精進の必要などあるはずがありません。先ほど述べた「三阿僧祇劫」の修行期間についても、「三阿僧祇劫が満たされるのを待つまでもない(不待三祇劫満)」(『黄龍慧南禅師語録』)と、その存在を無視することになるのです。
もし、これを文字通りに理解するならば、禅門の修行には、精進努力が入り込む隙はまったく無いことになります。 |
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| では、禅宗でいう精進とは何なのでしょうか。臨済禅師の師である黄檗希運禅師は、「身も心も[作用を]起こさないのが一番最強の精進だ(身心不起、是名第一牢強精進)」(『宛陵録』)と言っています。自分の心を動かさず、自分の身を忘れて努力するのが精進だということになるのです。「もし精進すているという心を起こすならば、妄念であり、精進ではない(若起精進心、是妄非精進)」(『景徳伝燈録』巻四)と言われる通り、「精進している」という心を捨てて努力するのが精進なのです。達磨大師は「仏は精進もしないし、怠けもしない(仏不精進、仏不懈怠)」(『少室六門』)と述べていますが、精進するとか怠けるとかのレベルを超えてこそ仏なのです。 |
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| そう言う私は日頃、「修行」や「修業」ならぬ「酒行」に精進している始末です。「自分は精進していないくせに、人に精進するように勧めるなど、とんでもないことだ(自不精進、欲勧人精進、無有是処)」(『禅宗決疑集』)と言われます。「言有る者、必ずしも徳有らず」(『論語』憲問篇)なのでしょう。 |
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| 「法光」春彼岸号 平成20年 No234 |
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