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福島県三春町に五百年続く名刹(福聚寺)のお生まれですね。幼い頃はどんな本を読んでいましたか。

父は東大の国文科の出で短歌もやるなど多趣味で、長男の私には「何でも好きなことをやれ」といってくれました。小学三年生の時の愛読書に平凡社の百科事典がありました(笑)。『怪盗ルパン』を文庫本で読むというのもハマリましたね。友達がみんな、大きな文字の本を読んでいた頃で、文庫本であるというだけで何かスリルを感じました。
節操なくいろいろな物を読む一方、お経もよんでいました。『般若心経』は四歳で暗記、その後『舎利礼文』や『大悲咒』とよみ進み、小学校では皆の前でお経をよんで受けていました。
どっちにしてもあだ名は「坊主」ですからね(笑)。意味も分からないまま丸暗記したわけですが、そういう能力は、大人も子どもにはかなわない。お経はおそらく痴呆症になっても忘れないでしょう。お経は知識として記憶したものでなく、身に付いたものですから。 |
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最近、スピリチュアルや心の癒しをテーマにしたテレビ番組が放送され、若者を中心に高い視聴率を集めています。この風潮は宗教ブームといえるのでしょうか。

それらの番組では、宗教の顔つきをわざと抜いていますね。特徴としては、少なくとも仏教が語らない部分を語っています。それは何かというと、宗教にとって二大鬼門といってもいい「霊と前世」、それにあっさりと言及しています。霊や前世の世界は証明不能ですが、輪廻転生を入れ込めばすべて事柄が因果律で説明できます。因果律とは、一切のものには原因がある。原因なくしては何も生じない、とする考え方。「霊と前世」を因果律に落とし込むためのアイテムとしています。スピリチュアルのアイテムといって宗教とはいわない。まあ、すべてを因果律に落とし込んで説明する行為を、私は宗教とは認めませんが。

前世や霊は普通の人が気になるテーマではありますよね。

誰でも気になるでしょうね。お釈迦さまの時代から弟子たちは霊に関する質問をしていますから。しかし、インド仏教では前世が前提にされますが、日本仏教では語りません。それでも「多生の縁」という言葉はあるし、「輪廻」という言葉は文学の中でも使われています。日本の場合は前世について文学的に語ることで、青筋を立てるような問題ではなくしたという気がします。輪廻はないとは言い切れませんが、少なくとも現在の僧侶はそれを語りません。だから地獄極楽というのもある種の文化的認識として学ぶわけです。
お地蔵さんや観音様には無意識に手を合わせるでしょう。でも、拝む人自身、お地蔵さんや観音様が本当はいないと知っている。つまり実在するものではなく文化的な象徴だと知りつつ手を合わせるというのは、かなり高い文化なのです。
ところが、現代人は性急な要求を突きつけます。たとえば「長年私の病気が治らない、どうすればいいのか」。病には無数の原因がからまっており、とても因果だけでは説明ができないのに、それを単純な因果で語ってもらいたがる。なぜなら、単純な因果しか脳が理解できないから。そして前世と霊を駆使すれば、分からないものはなくなります。
私は霊能力を否定しないけれど、言語化できるとは限らないものまで、霊能者が自分の生活体験の中の言葉で翻訳してしまっている。
世の中の現象には、シークェンス(ひと続き)、シンクロニシティ(同時発生)、パラレル(平行)、この三種類くらいの起こり方があります。でも、脳が理解できるのはシークェンスだけ。つまり「あれ」と「これ」の間に時間差があれば、「原因」と「結果」として結びつけることができる。「あれ」だから「こう」なった、としか頭は理解できない。脳が理解できるパターンに置き直さないといけないということで、因果律に落としていく。すべてを因果律で語ったらすっきりしますからね。「なるほど霊がついていたんだ。でも守護霊がついているから安心なんだ」と。

因果律という発想は、日本人だけのものでしょうか。

そうではありません。もともと日本人には因果律以外の発想もあったのですが、「合理的に語れること」=「自己」となり、「語り得ない自分」という部分は削除されていきました。そして「語り得ない自分」は「不思議な部分」で、最も魅力的な部分でもあるのですが、削除されていき、それが背後に溜まっていく。つまり、「人に対して語れない自分」がどんどん増えていく。そこに、背後霊が宿ったり、あるいは水子が発生するのでしょう。自己として語り得なかった「私」ですから、生まれなかった子どもと同じです。
因果律は、そのように「語り得なかった自分」を「霊で語る」わけですが、これは主にイギリス心霊学の文化を借りたものですね。
「なぜ長年私はこんな病気なのだろう」という不思議な部分を語るのに、霊をもってくれば分かり易い。だから霊障という語り方をすると、「そうか、(病気になったのは)自分のせいじゃなかったんだ」と理解して安心する。けれどそれは、実際には自分そのものを痩せさせているのです。病気や災いの原因は本当はわけの分からない、実に不可解なものなのに、分かり易いものとして語らないといけなくなっているのが現代の風潮です。
分かり易い自分とは「合理的な自己」ですね。個性が大事だと大人は子どもにいうけれど、大人が喜ぶような「合理的自己」しか認めていません。合理的ではない不可解な自己は、後ろに追いやられ、それが溜まって病気を引き起こす。命の不思議を思えば、それは起こり得ることなのに、「何かが取り憑いている」という話になる。
そして昔の日本人は何かが取り憑いたというときに、妖怪のしわざだと考えたのですね。狐や天狗が憑いているとか。
でも江戸時代の人たちが実在するものとして狐や天狗を考えていたのかというと、私は違うと思います。不思議な現象を引き起こす「器」として妖怪を無数に考えたのでしょう。
ところが今では「霊が憑いている」といって霊能者が霊を払い、莫大なお金を取ったりする。こうした行為が高度な文化とはとても思えません。市場原理に組み込まれているというのも大きな問題です。いわゆる「借り物」の文化ですしね。これなら、江戸時代の妖怪を復活させたほうがよほどいい。頑張っておられるのです。(笑)。あの方の志は高いですよ。 |
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老いに伴う寂寥とした感覚、身内や友人との死別で覚える無常観など、人は年齢を重ねるにしたがって宗教的な思いを高めていく傾向が強いようです。
 
それは自然なことですね。近代的な自我や合理的な自我は作り物。作り物の自我がほつれて自然に帰っていくことはきわめて自然です。
幼子が作り物の自己を作り上げる過程を、西洋の世界では、「人格の完成」として、肯定的にみています。でも、どこに人格の完成した大人がいるのかと、私はいいたい。
イノセント(純粋)なものからアダルト(成熟)へと向かって完成に近づき、それを過ぎた後は衰えていくという、西洋の人生曲線を日本は真似しました。でも本来、東洋人はまったく逆なのです。子どもは神に近い存在であり、その対極にある翁も神に近づく。一番神から遠いのは、成人した、分別盛りの大人です。
では、人を汚すものは何か。それは言葉なのです。言葉は、人をより虚構性の強い存在にしていくわけですから、穢れであり、因果律もそこに発生します。
しかしそうした東洋的な見方はすっかり衰退し、現代は医学も何も、すべて西洋的な人間観をベースにしています。
人は総じて、年老いてくると、ぼけ傾向が始まります。ぼけ症状を「認知症」といいますが、私はこの言葉が大嫌いです。「認知」という言葉の「症」を付けること自体日本語の誤りです。厚生労働省のお役人が命名したそうですが、これほど日本語を乱すものはない。
認知に欠陥がある病をこう呼ぶのが許されるならば、呼吸器官が病んでいる場合は「呼吸症」、歩くことができないのは「歩行症」といわなければならない。おかしいですよね。痴呆症といういい方が良くないとされましたが、認知症よりは幅が広くていいと思います。呆けるってことは、日常の中にもあるでしょう。
悪いのはお年寄りに対する老化の解釈で、人として壊れてきているというような、機械論的認識です。老化というのは、人がより自然な状態に帰っていくことだと思います。 |
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玄侑さんのお寺は臨済宗で、禅宗の一派です。日本仏教の中でも禅宗はきびしい修行をするというイメージがあり、またロジカル(論理的)な思考を重んじる傾向があるように感じます。

禅宗が言葉をたくさん持っているのは確かですが、ロジカルではないですね。逆に、言葉を莫迦にしているのです。ロジカルなところまでは普通の脳の状態でたどりつけますが、そこ止まりでは許さない、というのが禅宗でしょう。いいかえれば、合理的に物事を知っていくことは、ある種の虚構である。虚構の解釈に辿りついたあと、その解釈を捨てて、分かりやすくいえば、幼児の認識に戻ること、それを尊ぶのが禅宗だと思います。
たとえば、国政選挙。私は小さな子どもにこそ選挙権を持たせるべきだと思います。立候補者をみて「あのおっちゃん、嫌な目つきしているよ」と子どもはいう。でも大人は「目つきは悪くても立派なことをいっている」と諭す。けれど、いくら話がうまくても、嫌な目つきをしていたらダメでしょう。直観的に嫌な目つきが分かる子どもたちに、選挙権を与えた方がいい。そうすれば、駄目な政治家ばかり揃わないでしょう。
このように、幼児的な認識を大事にするのが禅的な発想の特徴のひとつです。そういう発想は、中国の道教あたりに強い影響をうけています。人間の理想は五歳だ、五歳のときの写真を拡大して貼れという一派もあります。五歳児はある程度理屈もわかるけれど勘がいい。このバランスが大事なのだと。日本の禅宗も、五歳とまではいいませんが、同じ考え方に立っています。 |
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坐禅が静かなブームになっているようですね。
 
坐禅の功徳を一言でいうと、因果的な脳を休ませて別な脳を活発に働かせること。他のいい方をすれば、大脳皮質を休ませて、辺縁系と脳幹部を活性化します。命の根源を支えている脳機能は、日常の「考えることはいいことだ」というような文化の中では働き場がないのです。自律神経系を始めとした深い身体機能、そういうものによってわれわれの命が成り立っていることにはなかなか自覚が持てません。
たとえば、涙を流すことも、呼吸することも、心臓の拍動さえもすべて自律神経に任せきりですが、実はわれわれの無意識もある程度はコントロール出来るという発想を持つのです。
意識的にすぐ変えられるのは呼吸です。呼吸を変えるだけで命の全体がどれほど変わるか、そういうことが坐禅をすると感じられます。
作家の五木寛之さんが「最近、趣味が呼吸になった」と書いておられましたが、実は、高校生のとき私の趣味が呼吸でした。三春町から郡山市内にある高校まで、夏場は一六キロの道のりを自転車で通うのですが、冬場はバス通学になる。
バスの中は格好の呼吸法の道場でした。かかとを上げて息を吸って、ゆっくりかかとをおろして吐く。ゆっくりかかとをおろす行為は腹筋を鍛えるのにも効果的。吐く息をどれくらい長く保てるか、次のバス停まで止めていられるか、息でずいぶん遊びましたね。
呼吸法を意識するきっかけは宮本武蔵の『五輪書』を読んだことかもしれません。私は剣道をやっていました。呼吸と武道とは深い関係があります。こて、めん、どう!≠ニ竹刀を打ち込んでいるときは途中で息をつきません。呼吸を止めている間は長い方がいいとか、呼吸を止めている間に肛門を引き上げ、舌先を上あごにつけて内臓を引き上げてくるとか、呼吸さえ意識的にしていれば筋肉はなかなか衰えないなど、いろんなことを学びました。
坐禅をしていると、吸った息を意識によって運べるということも分かるようになります。漢方でいう気血です。たとえば手に意識を持っていくと手の温度を上げることができます。おそらく脳のなかにも色々な変化が起こっているのでしょう。そういう意味では、坐禅は脳のトレーニングにもなります。たぶん脳の探求の結果が仏教ですから、脳科学者が仏教に興味を持つのも理解できますね。 |
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定年退職の人たちに、禅僧としておすすめの言葉があれば教えてください。

<無功徳>という言葉をおすすめします。
禅宗の始祖・達磨大師が梁の武帝と会見したときのこと。
「自分は仏教興隆のために仏典の翻訳や造寺造仏事業を展開しています。こういう私にどういう功徳があるでしょう」とたずねた武帝に、達磨大師はひとこと「無功徳」と答えます。そして話し合いは決裂したという話があります。
皇帝と仲良くなれば、禅宗を広めるのに都合がいいのに、達磨はよほど武帝が気に入らなかったのでしょうね。無功徳というのは、「何の役にも立たない、ご利益はない」ということです。
普通、人は、これは何の役に立つのかということをずっと考えながら仕事をしています。現役のときは、功徳あるいはご利益を求めて働くことはいいことでしょう。でも定年退職したあとは、考え方、発想を転換してみませんか、といいたいのです。何かの役に立つのかどうか、すぐには分からない、そういうことに没頭できる立場にせっかくなったのです。
サラリーマンの仕事は分業が前提です。分業が人間に余裕をもたらしたという側面は確かにあります。夏目漱石はすでにあの時代、分業が起こって文化にどれだけメリットが生まれたか、講演で語っています。でも漱石のいう分業はサラリーマンのそれとは異なります。
たとえば寿司屋は、分業がなければ海に行き魚を捕ってこないといけない。つぎに米を作り、わさびを取りにいかなければ。それらを取る人がいて握ってくれる寿司屋さんがいるからわれわれは寿司を食べられる。それによって海に行く時間、わさびを取りに行く時間、米を作る時間を人生上からもらえる。基本的な分業というのはそういうもので、分業がないと文化的な余裕は生まれないと、漱石はいったのです。
しかし、現代では分業が細分化されすぎて全体が見えないところまでいっています。
分業というのは「これをすればこういう役に立つ」という中でやっているわけですが、定年後は、自分の命が求めていることに素直に耳を傾けられる、そういう時期です。「これをすると何の役に立つのか」という気持ちをいったん捨てたらいいと私は思います。だから、「無功徳な生」こそ尊い、といいたいのです。
人はみな、実は「ただ生きているだけ」なのです。でも、「ただ生きているだけ」だと思うと辛いので、生き甲斐をつくったり、志を立てたりする。そういう物語を作ろうとするけれど、実際はただ、自動的に生きている。ただ生きているということを楽しめるようになるのが、自然な老化というものです。
若いときは志を立て、仕事一途にがんばった。生きていることを楽しめる老年期は、一途にがんばる必要はない。一途さがたくさんあっていいと思います。
たとえば、イデオロギーに対する関心も年をとれば薄くなるかもしれません。
「ご飯なんてどうでもいいから世界の情勢について語ろうよ」というのが若者たち。でも、イデオロギーより「今晩のおかず」の方が大事というのが、じつは本当の生き方ではないでしょうか。
サラリーマンの世界では全く無功徳だった晩のおかずを、重大な問題として考えられるのが、老年の豊かさです。無功徳といわれる世界をこれからは大切にしていただきたいと思います。
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| ◎構成/奥村理英 ◎写真/奥山和久 |
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