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| 撮影/橋本 哲 |
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衣替えの時間になると思う。今冬も着なかったあの服を捨ててしまおうか。なのに、結局、捨てられない。「みんな同じです」と、玄侑さんが笑う。
「『もしも』のためにものをためる習慣は、はるか昔からあったんですね。ただ、一方で『ものは回転しなければならない、保管してはいけない』の考え方も昔からあった。お金は『お足』というでしょ。『お金は足があって動いて流れていくもの。澱ませてはいけない』と、考えられていたわけです。本当に”澱み”というのはロクなものではありません(笑)」
お金が澱むと経済が回らない。水が澱むと濁る。ものを澱ませると…、どうなるのでしょう?
「煩悩が生まれます」
服そのものを捨ててしまえば、もう悩む必要もなくなる。
「ものが澱むのも困る。でも、それだけではないんです。私たちがため込んでいる最大のモノは何だと思います? 物質的なものでもお金でもない。”思い”です。一年前に出会った悲しい思いも、昨日の痛かった思いも記憶として鮮明に残る。思いが胸に澱むわけです。これが困る。生まれてからずっと蓄積されてきた先入観と積み重なった思いの記憶。脳がそれでいろいろ捏造するんです」
例えば石に躓いて転び、「痛い!」と叫ぶ。途端に、人はいろいろなことを思う。「誰かがおかなければ道路に石があるはずがない。こんなところに石を置くなんて」とイラつく。「前にもこんなことがあった。あの時は後ろの人に押されたんだった」と思い、後ろを振り向く人もいるだろう。
「『痛い』の感覚に、脳は先入観や記憶に発した言葉を加えてしまう。すると、もっと痛くなる(笑)。寒いと感じた時に、『凍えそうだ』と一歩すすんだ言葉を浮かべる。なおさら寒くなってしまいます」
脳が発した言葉に感覚が引きずられる。それは、病気も同じだ。
「身体の中では細胞が泡沫のように死んだり、生まれたりしています。一日に三百個くらいのガン細胞が生まれ、免疫力で消されているという説もあります。膨大な数の細胞一つ一つが刻一刻と変わっているなか、どれだけの細胞がどの状態になったら病気といえるのか。少なくてもいくつかの細胞は悪くなっても、おおかたは健康なわけですよね。それでも、体調が悪くなると脳は『私は病気』と考える。健康な細胞までもガクンときちゃうでしょ?!(笑)。本当に、身体は病気のような状態になってしまう。そして、『あの人はこの病で…』と先入観や記憶を引っ張り出した脳の言葉によって、なおのこと病気が悪化する」
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| 「老いや死は自然現象そのもの。自然の流れに逆らい、コントロールしようとするのが人間だけど、本来、自然は味わうもの。”そのまま”を味わえばいいんですよ」 |
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| 「『変わりたい』と考えても変わるのは難しい。所詮は言葉遊びになってしまう。捨てることのほうがよっぽど変われると思います」 |
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感じている痛みは実際の痛みではなく、脳が肥大化させた痛み。病の発生源は身体のなかでも、悪化させているのは脳。脳が発する言葉に引きずられているのは身体だけではない。心も同じだ。
子が独立して「さびしいなぁ」と思う。いつもいる人がいないから、さびしいと感じる。ここまでは事実。すかさず脳は記憶や先入観をかきまぜて作った言葉を自分にささやく。「子供はあなたを必要としていない」「これからずっと一人でさびしい」(に違いない)。でも、「親は不要」と子が言ったわけではない。将来、さびしいかどうかはわからない。つまり、脳が発した言葉は脳が作り出した架空の話。それでさびしさは何倍にも膨れ上がり、身が震える。
自分の脳が自分の心や身体を追い込む。「脳が記憶を捏造した責任を心や身体がとっている。それをもっと自覚する必要があると思うんです」と玄侑さんがいう。
「さびしい、悲しい。それは感覚です。感覚を感じることこそが生きているということ。でも、そこから心を発展させてはいけない。煩悩が渦を巻いてどうにもならなくなってしまう。」
欠けたものを補うことも、「こうすればさびしくなくなる」の脳の言葉に引きずられているから。
「脳は感覚をコントロールしようとしたり、足りないものを補おうとするんですね。だから欠けたものを補うためのモノを得ようとする。でもね、さびしさをモノで補おうとしてもムリなんです。常に細胞は生まれ変わり、心も動く。すべては刻一刻と変わっています。一瞬で変わっているのに、そこに何を足しても元に戻ることはありません。」
考えてもさびしさが増すだけ。モノで補おうとしても元には戻らない。だが、さびしい感覚は確かにある。どうすればいいのか?
「何も考えずに『さびしさ』を」さびしいままに感じていればいいんです。身体も心も一瞬で変わっていますから、さびしさも変わっていく。その変化を味わっていけばいい」 |
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池に石を放れば水面は揺れるが、徐々に収まっていく。同じように何かをきっかけにさびしさを感じてもそれは徐々に変化し、脳がアレコレと考えなければ、いつしか静かになっていく。その流れを味わっていけばいい。これが心静かに生きるコツ。でも、考えたくて考えているわけではない。脳の言葉は勝手に湧きあがってくる。どのようにして抑えればいいのか?
「意識的に捨てていくしかないんですね」と玄侑さんはいう。
「何も考えずに”そのまま”を感じていられるから。でも、それはなかなかできません。だから、脳に言葉が湧かないようにする。それが『無心』になるということで、坐禅はその方法の一つです。そして、記憶の代わりに記憶がこもったモノだけでも捨てるんです」
モノを残せばそれに縛られ、すがってしまう。それは作家でもある玄侑さんも同じだ。「なので、むかし書いた小説は捨てました。持っていると、書けなくなった時にすがりそうな気がして」と笑う。
「食事をするたびにメニューを背中に張り続けている人はいないでしょ。そんなことしたら、昨日は何を食べたか、前にサンマを食べたのはいつか、といろいろなことが気になって大変なことに。食べたものが変化して身になる。その結果が今の自分。それでいい。記憶も同じ。形に残す必要はなく、過去の積み重ねがわが身になった。わが身一つでいいんです」
実際に、モノを捨てわが身一つになろうとしている人もいる。檀家さんの一人、九十七才の 女性だ。
「七十五才の時だったかなぁ。『着ないものを持っていてもしかたがない』と決めたんですね。そして、実際には人にあげている。すごいことだと思います。思い出が宿った愛着のあるもの。思い出を喚起するものを捨てるんですから。しかも、高級な着物も普段着も関係ない。着るもの以外は手元におかない。実に潔く、清々しい人なんですよ」
モノを捨て、わが身一つに近づく。それは、煩悩を少なくすることにつながる。思い出を手元におけば、見るたびに過去に戻る。戻った瞬間に、過去の記憶から作り出した脳のささやきに振り回され、さらに新たな煩悩が生まれる。
「モノを捨てれば心が自由になり、モノと一緒に過去を捨てれば今を大切にするようになる。過去に心を捕われるか、今を大切にするか、日常のあり方が全く違ってくると思います。そして、人間はモノにも過去にも未来にも捕われず、今この瞬間を生きていれば煩悩もさほど厄介なものにならない。なくなることはありませんがね」
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「何を持とうか、どこに住もうか。重大なことのように思われていますが、あんまり意味がない。自分を被うすべてを剥ぎ取り、裸になったところにその人自身があるのですから」 |
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| 「捨てる」ことを、禅の言葉で「放下(ほうげ)」と言います。放下はお寺の経理用語でもあり、支出を意味する。収入は「把住(はじゅう)」です。一見、把住が大切なように思うでしょう。大切なのは「放下」です。意識して支出すれば、おのずと収入は入ってくるでしょう。お寺が尽くせば、おずおずとお布施は入ってくるもんなんですね(笑)。出すことが重要なのは、坐禅の呼吸も同じ。坐禅で意識するのは吐く息だけ。意識して長く深く息を吐く。吐ききれば、自然に息が入ってきます。支出も吐くも、同じ放下です。所有物から解放されて心が自由になる、と意識してみてください。そして常に「最初の出会い」の感覚だけを味わうことです。 |
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何も無いときに初めて、出会ったものの豊かさがそのまま感じられる という意味です。美醜・大小・尊卑・善悪……私たちはすべてを先入観というフィルターを通して見ています。でも、何が美しくて何が醜いのか。先入観を持ってみると、ものの本質が見えなくなってしまう。先入観を捨てて知覚に入ったままを捉えれば、そこにありのままの姿が見えてきます。例えば、空腹の時はとても食事が美味しいですよね。料理法や見た目や栄養に補われて食事するより、ずっと美味しい。同じように、先入観を捨てて脳を空っぽにする。空っぽだからこそ、自由に楽しみ、すべてがありありと見えてきます。目に入るもの、耳に聞こえるもの、心に感じるもの。先入観のない状態で、そのままを味わう。その変化を楽しむ。豊かな気持ちになるはずです。 |
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モノで補おうとしたり、ムリに忘れようとするのではなく、さびしさを味わう。すべては変化していくものだから、その変化をそのまま味わう。と言っても、実感しにくいかもしれませんね。「一円相」を描いてみましょう。一円相を描くと一瞬一瞬で変化していく様を実感することができます。方法は簡単です。ゆっくりと深く息を吐きながら、片手で空中に大きく円を描いてください。円の始めと終わりの点が合わなくてもいいです。そんなことは考えず、ただ筋肉の動きに意識を集中してください。目を閉じたほうが集中できます。どうですか? 腕や肩の筋肉の内部が、細かく変化するのが感じられるでしょう。一円相は立派な瞑想法です。
筋肉の内部変化に意識を集中していると脳に言葉が湧かず、無心の境地に近づけます。無心になると、人は元気になれるんです。どうしても人には脳を空っぽにする時間が必要です。日々のなかに、「一円相」を取り入れてみてください。 |
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「ゆうゆう」(主婦の友社)2006年5月号 |
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