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お寺は、社会や地域の中で、公共の利益に資することを手がけ行なってきた存在なのですが、明治以降の近代化とともに、その機能のほとんどを行政に奪われてしまったという面があります。
まず役場に住民課ができる。住民課の仕事というのは、それまで「現在帳」というかたちで、お寺がやっていた仕事です。それが奪われて「過去帳」だけが残されてしまった。それから人々が集まり何か催しものをする場でもありましたが、それは公民館、あるいは文化センターにとってかわられた。教育の場という機能もありましたが、それは学校となった。
住民課、図書館、文化センター、もっと時代をさかのぼれば、福祉や医療といった機能ももっていたでしょう。しかしすべてお寺から切り離されていったのです。
大学入学から数えて十二年ぶりに寺に戻ってきたとき、私はお寺が本来もっていた機能を回復したいと思ったのですが、その際、お手本にしたのが室町時代のお寺ですね。
室町時代、とくにその後半は、禅仏教にとって禅の何たるかが民衆におりていく時代だったといえます。
たとえば禅仏教に深く影響を受けた華道、茶道といった文化の基礎ができてくる。あるいは一休さんのお寺で金春禅竹が一休のために薪能を演じたりする(※)。そうした動きは禅そのものではないにしても、禅というものがひとつの綾となり文化となって民衆に浸透していく過程といえます。能イコール禅とはいいきれませんが、能の背景には仏教思想があり、作品はそれを背景にして書かれていきます。
禅が人々に浸透していった室町時代の寺が内包していた機能をなんとか回復し、現代に甦らせたい それで三十代は、いろいろと新しいことをやりました。イベント寺といってもいいくらいでしたね。本堂を利用して、詩と音楽の夕べやバロックと朗読、弦楽四重奏のコンサート、文楽など、ほぼ十年間さまざまなことをやり続けた。ほとんどイベンターという感じでした。とにかく寺の門戸を開き、多くの人に集まってほしい、そこから仏教や禅の何たるかを感じてほしいという思いが強かったんです。
しかし一過性のおもしろさを劇場的に味わって帰ってもらうだけでは、やはり物足りない。もちろん催しのシナリオを自分で書き、仏教的な内容を理解してもらおうとはしたのですが、私としてはもっと深く考えてもらいたいという気分が強くなってきた。そして小説を書き出した。書き出し始めたらイベントをやる時間がなくなってしまったわけです。 |
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いまこの寺でやっていることでは、月に一度の坐禅会があります。これはつねに禅というものへの窓口を開いておきたいということですね。法話の会もやってほしいという声もあるのですが、あちこちで講演してるんで、ここであらためてやることもないかと(笑い)。
地域のためという意味では、親と子のためのもちつき大会を、私が戻ってきてからずっと続けています。それから大般若転読祈禱会という、天台、真言、禅宗などが行なうものなんですが、そこに江戸時代の福引の要素をつけ足した行事をやっている。
福引や富くじなどもお寺が始めたものなのですが、戦後は宝くじというものに姿をかえていきます。富くじは神社もけっこう前からやっているのかもしれませんが、少ないお金で大勢が参加して、相当な額になって誰かが当てるという楽しいギャンブル性がある。大般若くじと称して、参加者にくじと番号札を配って、儀式終了後にふすまが開くと、ずらっと景品が並んでいるという演出です。今年は四十五インチのプラズマテレビが特賞で、あとはコンピュータや自転車などが景品です。まあ年に一度のお寺からのサービスですね。毎年三百人くらいの方が参加しますね。
あとは古典的な二祖三仏忌の行事。うちの場合、二祖は達磨さんと開山さまで、三仏忌とはお釈迦さまの降誕会と成道会と涅槃会のことです。こういう伝統的な行事の充実は図っています。
いろいろなことをやってきましたが、執筆とのかねあいで結局はこういったところに落ち着いています。 |
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明治以降、お寺の機能は行政が担うようになり、お寺は変質を余儀なくされたわけですが、もうひとつ大きく変わった時期が高度経済成長期でしょう。高度経済成長期のお寺を考えると、それは全国的な傾向だと思うのですが、お寺もまた高度成長をとげていったのです。
お寺の経済成長を促したひとつは墓地開発です。それから副業をもちました。住職が、学校や農協や役所、あるいは会社に勤め、兼業となった。そうした寺が圧倒的にふえたわけです。
それまでお寺はまちがいなく貧乏でした。日本全体もまた豊かではありませんでしたが、よほどの寺でない限り、寺はたいてい一般の家庭より貧しかった。私などもツギの当たっている服を着ているのが当たり前でしたから。
それが高度経済成長の波に世間と同じように乗り、同じように経済成長をとげた。私たちの祖父の世代には副職をもつということはほとんどありませんでしたね。昔からお寺が兼業だったことは少なかったはずで、副業をもつ者がふえるというのは、われわれの親の世代、高度経済成長時代の青年僧侶だった人たちに、きわめて特徴的なことだと思います。
墓地を開発し副業をもつ、檀家さんもどんどんふやし、器は大きくなる。お寺の経済事情は格段によくなったわけです。
都会のお寺はこぞって地主になっていきました。デパートに土地を貸したりして、つまり地価の高騰とあいまって、何もしなくても食えるようになっていった。
神道においてもそうですけれど、土地の売買が自由に行なわれるようになった時点で、氏神さまがおろそかにされ始 めました。つまり土地の売買が自由になった時点で、神道的な基盤は崩れたといえるのですが、いまやアパート住まいともなると「うちは氏神さまへのお札代を払いません」ということにすらなって、またそのことを認めたりしています。
それはおかしいと思うんですよ。信教の自由とかいう問題じゃない。その土地に住むということは、その土地の氏神さまの保護下に入る そういうことなんだと学校で教えなかったから、どうしようもないことになってしまった。
当時は市場経済とまでは呼んでいないでしょうが、お寺もみずからの経済活動によって、みずからの足元を揺るがしていったということなんじゃないでしょうか。
そもそも兼業で会社に勤めて部長やってる人間が、社長に引導を渡せるのかという問題もある(笑い)。 |
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私の父も兼業で高校の教師をしていました。理屈からすれば、お寺であがった収入で子どもが学校に通っているのは、子どもにとってかわいそうだということもあったのでしょう。
浄土真宗などは世襲が前提で子どもが継ぐことに決まっています。子どもの教育を含めた生計がお寺によって成り立っている、つまり門徒さん、檀徒さんが養っているのだから、子は寺を継ぐのが当たり前だということになる。そうなるとたとえば大学に行ったとしても学部まで制約されかねないし、自由にならない。そうなってはかわいそうだ、と。
私の父は大学は国文科で好きな勉強をしたし、短歌などもやっていたので、息子にも自由にやらせてやりたい、そのためには息子の学費はお寺の収入でなく、教師として稼いだお金でまかなう。当時としてはまっとうな理屈だったでしょう。
たしかにありがたかった面はあります。しかしお寺の仕事にもっと情熱がもてれば、別に教師なんかやらなくともよかったはずです。好き好んで勤めたというより、時代がそうさせたんだと思います。
しかし、それがどれほど自分たちの足元を揺るがしていったかということに、大半の人が気づかないままだった。
僧侶だってふつうに稼ぐこともできるんだみたいな思いもあったんでしょうね。坊さんというだけじゃ尊敬されないし、ましてや貧乏だったから(笑い)。でもこれが一筋縄では後戻りできないくらいの大変化をもたらしてしまった。
その変化をわれわれの世代は形骸化と見ました。そしていま、われわれより若い世代の僧侶たちが、お寺のありかたを巻き戻しています。
兼業しようという若者がまず減っている。日本人はバランス感覚に優れているところがあると思うのですが、変な方向にいきすぎると必ず巻き戻しがある。だから日本は捨てたもんじゃないと思うのですが、いままっとうに寺をやろうとしている僧侶はかなりいます。
幸いにも宗派として私を嫌がっているところはおそらくありません(笑い)。全部の宗派から講演に呼ばれていますし、そこでさまざまな宗派の青年僧侶と実際接するのですが、仏教が行くところまで行ってしまったことを踏まえて巻き戻そうとしていますから、かなり強い意志をもっています。
たしかに檀家という存在があり、檀家にはこれくらいないとやっていけないという部分はありますが、兼業するか、兼業せずに踏ん張るかは大きな分かれ目です。
専業で踏ん張ればなんとかなっていくんです。あの坊さんはいつも寺にいるということがわかれば、いろんな依頼もふえてくるし、坊さんたちのあいだでも檀家さんとのあいだでも踏ん張れるような仕事が舞い込んでくる。兼業か専業か、この決断はお寺のありかたにとって大きな岐路なんです。
ただ基盤が根本から失われてしまっているような都会の寺は心配ですね。喫茶店を営業するなど、おもしろい趣向で人を呼んでいる寺もありますが、苦肉の策という印象は否めない。私などは坊さんになる前にナイトクラブのフロアマネージャーやりましたけど、坊さんになってからフロアマネージャーやるわけでしょ(笑い)。なんかもったいない気がして仕方ないですね。 |
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私はいまなんとなくですが、仏教が大手をふっていけるような感じになってきたと思っています。人の苦と向き合う真摯な活動を展開している僧侶や寺の存在がようやく知られてきたことが大きいと思いますし、坐禅会の参加者もあちこちのお寺でふえています。鎌倉の建長寺の教学部長は私の後輩なのですが、「先輩のせいで参加希望者がふえて困ってます」とぼやかれました。
坐禅は生理学的見地からも推奨されつつあるようで、坐禅をするとナニナニに効くとかいわれて飛びつく人もいるようです。現金なものですけどね、しかしきっかけは何でもいい。坐禅は、鵜呑みにする世界ではなく、自分で気づいていく世界ですし、そうした行為が盛んになるということです。それに、あれほど資本主義に反する行為はないですしね(笑い)。
仏教は総合的な知の集積です。仏教の本質的なテーマが命だとすれば、そこはあらゆる学問が関係している。その幅広さは、私の無節操さが証明しています(笑い)。
脳科学でも心理学でも医学でも動物のことも植物のことも、まじめに仏教をやろうと思ったらぜんぶかかわってくる。ジェネラルであるということをめざし始めると、仏教を無視することはできなくなるはずなんです。
苦しむと仏教に来るということがあります。ニートと呼ばれる人などは、要するにスイスイ上に行けず、悩み苦しんでいるわけですが、見方を変えれば、彼らはスイスイ行くことを足止めされている。工学部出れば就職は万全、医学部出れば人生安泰みたいな時代がありましたが、それがなぜ終わったかというと、それでは人生の幅があまりにも狭いということに気づいたからでしょう。少なくとも昔の学問体系からすれば狭すぎる。人本来の豊かさも深さもないじゃないか、と。ここにもいい意味の巻き戻しがあるのだと思います。ジェネラルであること、総合化とは何かということを考えるために、いったん立ち止まるべきなんです。
その点、子どもなどはいちばん総合的なはずです。それを中学生から職業体験させて何になりたいのかをいわせ、そのために必要なことを集中的にやらせる。それは一種の片輪ですよ。「君子は器ならず」といいますが、器ばかりつくっている。だから器づくりを急がず、ジェネラルに戻れということで足止めさせられているのだと思います。そのとき仏教に出会う人が多い。
お寺のありかたは大きく変わりましたが、行政と分担しながらも本来的な機能を回復すると同時に、いまの時代、人がジェネラルに戻るための知の集積場として機能し始めたと思います。
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■構成・石井靖彦 |
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※ 一休宗純(1394~1481年)が草庵を結び酬恩庵と号した寺で、世阿弥の女婿で能役者の金春禅竹(1405~40年ころ)が1456年(康正2年)に総門前で一休のために能を演じた。 酬恩庵は一休が没した寺で京都府田辺市にある |
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「望星」 2007年12月号(東海大学出版会) |
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