グローバル経済のなかで、日本では金融不祥事や企業犯罪が相次いでいる。なぜ日本社会ではマネーゲームに熱中する人たちや拝金主義が横行するようになったのか。現職の副住職でもある作家・玄侑宗久氏に話を聞いた。

 2005年来、ライブドアや村上ファンドの事件、さらには日銀の福井総裁のトラブル、近未来通信の事件など、「お金」を巡る事件が頻発している。
 その背景にあるものは何なのだろうか。福聚寺副住職であり、芥川賞作家でもある玄侑宗久氏は、「地に足の着いていないお金」が問題だと指摘する。
 「村上ファンドやライブドアは、言ってみれば『飛ぶ鳥が落ちた』ということです。経済学者のアダム・スミスは『お金を空に飛ばせてはいけない』と言いましたが、村上ファンドやライブドアは、お金を空に飛ばしてしまったわけです。
 お金が物に対置しているときは、まだ地に足が着いている。しかし、お金がお金を生むようになると、お金は空に飛んでしまう。実体の無い『群れ』になるんです。室町時代には、お金を『お足』と呼んでいたそうです。お金は足があるかのように動き回って、すぐになくなってしまうけど、少なくともその頃のお金は地に足が着いていた。今では地面を動き回るどころか、お金に羽が生えて空を飛ぶようになってしまいました(笑)。
 飛んでいる物はいつかは落ちてくる。村上ファンドやライブドアのような『飛ぶ鳥』が落ちるのも、必然だったと思います」

「お金」の概念が一人歩き  概念ではなく実相を見よ

 お金が空を飛ぶようになってしまったのは、お金という概念に人間がとらわれてしまっているせいでもある。玄侑氏は、「実相」こそ大切だと言う。
 「もともとお金は人間が考え出した高度な概念に過ぎません。『これとこれは等価』『この労働はいくら』というのはあくまでも方便。それを本気で信じたら馬鹿馬鹿しいし、苦しくなるだけです。『私は何物にも換金されない』という矜持が必要だと思います。しかし、概念は一人歩きしやすいものです。
 たとえばサンマが『3尾300円』で売られていると、人間にとって3尾のサンマはすべて同じ物になってしまう。でも、猫が3尾のサンマを見たら、鮮度の悪いサンマには手を出さないかもしれない。そうすると、人よりも猫の方が実相を見ている。偉い、ということになります(笑)。
 人間は実相ではなく、概念の方しか見ないものです。それが危ない。仏教が唱えているのは、概念をとっぱらって実相を見ろということなんです。ただ、『拝金』という言葉があることからもわかるように、『何でも拝むのが良いんだろう』と日本人は思っているところがあります。
 この、何にでも神が宿るという考え方があるから、拝金にも陥りやすいんですね。でも、八百万の神というくらいですから、昔はお金だけじゃなくて、他にもいろいろな物に神が宿っていたんです。それが今ではお金だけが拝まれるようになってしまった。今はどうやら、お金には一神教の神が乗っかっているようです」

グローバル時代の「お足」  世の中のバランスを崩す

 概念が一人歩きし、肥大化していく「お金」は、今やグローバルに飛び回っている。グローバル時代において、人はお金とどう付き合っていけばいいのか。
 「今は、国内だけでやっている企業は、大きな会社であっても『中小企業』扱いになるそうですね。『大企業』と認められるのは、グローバルに商売をしている企業だけです。
 地に足を着けているだけでは、グロ−バルな商売は難しい。グローバルな商売をして外国とお金を回すには、『お足』に羽を付けるしかないですよね。そうやって、お金に空を飛ばせるしかない状況になっている。そういう時代には、空を飛んでいる物にしがみつかないことが大事です。そうすることで、実相が見えてくるようになります。世の中に価値はいろいろありますが、換金できない価値の方が断然多いはずなんです。しかし、何でも換金する癖のある人は、熟れた柿の実を見ても、『この柿はいくらするんだろう』というようなことしか見えない。
 また、デイトレードをしている若者などは、『お金が入る行為』を労働だと思っているようです。でも、世の中には『働いてもお金にならない行為』だってあるわけです。
 日本語の『働く』には、『はたらく=端が楽になる』という意味も読み取れます。労働そのものが本来持っている互恵性、福祉性が込められた良い言葉だと思います。
 西洋にも『自由、平等、博愛』という言葉があります。自由は経済が、平等は政治が、博愛は宗教が、それぞれ受け持つものだったはずなのですが、最近の日本では、政治が平等を目指さなくなりました。
 平等が減ったかわりに、博愛が増えなければバランスが取れません。だから、今の日本では新興宗教などが活発になっているんです」

抑圧された自己が背後霊に癒すために増殖するお金

 世の中のバランスが崩れたところに、新興宗教が入り込んでいるということなのだろう。一方でお金もまた、人の心の隙間に入り込んでいる。その根本は子どもの教育にもかかわってくると玄侑氏は警鐘を鳴らす。
 「今の子どもは、個性化教育の行き過ぎで小さい頃から自己を規定されてしまいます。でも、昔の子どもは、もっと自分の無限の可能性を信じていました。それがなくなったから、今の子どもは、『将来なりたいもの』についても妙に現実的だったりするんですね。
 そうすると『陽の目を見ない自分』が背後霊になるんです。『表現されることのなかった自分』が水子として、憑く。
 それを補っているのがお金というわけです。幼い頃から『しっかりした子』にさせられると、死んだはずの水子がたくさん呼び覚まされる。背後霊となって、代償行為のようにお金が使われていきます。本人に自覚はないでしょうが、お金が背後霊を癒す行為になっているのです。
 個人のなかのバランスが崩れて、お金が増殖していく状況はこれからもしばらくは続いていくと思います」

取材・文/宮島理(宝島編集部) 撮影/伊藤 幹

僧侶・作家
玄侑宗久
(げんゆう・そうきゅう)
1956年生まれ、慶應義塾大学中国文学科卒。2001年に『中陰の花』で第125回芥川賞を受賞。現在は福聚寺副住職をつとめる傍ら、執筆、講演に勤しむ。『アミターバ−無量光明』ほか著書多数。

「宝島」2007年2月号(宝島社)