イライラをひきずったり、ウツウツ悩んだり、心の風通しが悪い人が多い現代です。今回は、「心を静めるために」というテーマですが、私は「心が沈みっぱなし」の人の多いことが、今、いちばんの問題ではないかとも思います。
 そもそも、人間には、喜怒哀楽があって当然。うれしければ笑い、悲しければ泣けばいいのです。何ごとにつけ、その状況に即することが、自然なことではないでしょうか。だから心の浮き沈みも当然なことだといえます。浮いていればだんだんに沈みもするでしょうし、沈んでいればだんだんに浮かびもするでしょうから。
 ところが、とくに現代人は「ああもしてみたい、こうもしてみたい」という願望がとても多くて、あれこれ考えることがいっぱいで、心のほうも風通しが悪くなっているようです。ことに会社勤めの人は、仕事に関して、「本当にやりたくてやっているわけじゃない」という思いがきっとあるのでしょう。今やっていることに、心が100パーセント向かっていません。「本当の私」はこれじゃない、という思いにとりつかれがちです。「私」というのは、今、ここにいる私しかいないのに、ほかにあると思い、青い鳥探しをしているのです。
 「慈(じ)」という字は、心の上の部分を「茲(ここ)」と読みます。心がここにあることつまり今この瞬間に心をおくことが、慈しみややさしさをもたらすというこよとはないでしょうか。
 現代人は、計画を立て、その通りに行おうとすることに慣れすぎています。会社では、それがよしとされるのでしょうが、人生上の計画がその通りにいくなんてことほどつまらないことはありません。それでも、計画を立てずにはいられない人の何と多いことか。計画が細かければ細かいほど、「予定通りになっていない」「次の予定に支障が出てしまう」などイライラしなければいけません。
 「やむをえず」「やむにやまれず」という言葉がありますね。「自分の意思に反して仕方なく○○している」という意味でしょうが、私はこれらを「自分が思ってもみなかった状況の変化のなかで、自分に求められていることをする」ことだととらえています。これ以上の行動の理由はないんです。誰にも必ず、そのとき、そのときに、周囲から求められていることをするために、「今」という時間にどれだけ自分を投げ込めるか、ではないかと私は思います。
 目的地にたどり着くまでの道のりは、一つだけではありません。回り道をしている途中に、思いがけず素敵なものと出合うことだってあります。大切なことは、素敵なものに出合ったこと感じることができる、風通しがよい状態であることです。
 とくに、定年を迎えた方や子育てを終えた方は、計画のない暮らしを上手にできるようになることが、心の風通しをよくする近道となるでしょう。
 さきほど喜怒哀楽はあって当然といいました。むしろ、鮮やかに起こったほうがいいと思います。ただ、その感情をいつまでも自分のなかにとどまらせておくことはおすすめしません。前の感情が残像のように残っているうちに次の感情が起こると、すっきりしませんね。青い鳥の上に赤い鳥が重なって、紫の鳥になってしまいますよね。
 喜怒哀楽が鮮やかに活発に起こりながらも、鎮まっているという状態が、本当の意味で、「心が静まっている」というべきでしょう。「心がニュートラルな状態」というほうがわかりやすいでしょうか。車軸が安定していれば、デコボコ道でも、それに応じて進むことができるというものです。
 そう、人生はデコボコ道。私たちの日常はたえず「道中」なのです。
 人は、相(姿)と念(思い)にひきずられて生きているもの。たった今は、こういう相とこういう念をもっているとしても、それは道中でのことにすぎません。景色も変われば、状況も変わります。「今、ここ」の道中を愉しむしかないのです。
 例えば、自分に似合う色は赤で、青は絶対に似合わないと決めつけているうちは、不自由です。人から「青も似合う」と言われて、着てみることも楽しいではありませんか。自分のイメージは、自分のもつ一つだけではなく、他人の数だけあっていいのです。ということは、そのときそのときでさまざまな相(姿)になれるということで、とても気が楽になります。
 臨済宗中興の祖といわれる白隠禅師は、こんなことを言っています。
 「無相の相を相として往くも帰るも余所ならず、無念の念を念として謡うも舞うも法の声」
 自分とはこういう人間だという思い込みを捨て去れば、どこへ行ったとしても、自分がいるべきところにいる。また、どう思っても自分だと思えば、歌ったり踊ったりして、今までになかった自分がいても、それは、法にかなっている。そんな意味です。
 イメージとか計画とかいうものは、人をとても不自由にします。それがあるから、本当の自分はほかにあると思ってしまうのです。今、こんな姿をして、こんなことを思っている自分も一コマ。その一コマ一コマがつながっていって、相対的な時間がその人の「歴史」になります。
 しかしその歴史からも、自由にならなければいけません。過去の自分を見て、だいたいこういう相が自分であり、こういう念が自分にはある、などと括ってしまわないことです。
 昨日の自分と今日の自分に、人は何らかの一貫性を求めようとします。それは、「本当の自分」を求める気分に通じるのだと思います。でも、昨日ささいなことで夫に八ツ当たりしてしまった自分と、今日飼い犬のしぐさに大笑いしている自分とは、車軸は同じ。毎日同じ道を通らないだけなのです。
 どんなデコボコ道でも、怒ったり悲しんだりしても、「これも道中、どう思うのも私」ということがわかっていれば、心をニュートラルにして、気分を入れ替えることもたやすいでしょう。
 固定的な相や習慣的な念から離れ、心をニュートラルにするのに役立つ禅的な方法は、いろいろあります。
 その代表的なものが坐禅でしょう。しかし、坐禅というのは、もっとも雑念の湧きやすい状態において「考えるな」という、とても難しいトレーニングです。崖を下りているときならば、間違いなく無念無想になれますが、坐ったままの状態で、崖を下りるときの緊張感をもたなければならないのです。一瞬一瞬の変化を、そのままリアルに感じなければなりません。坐禅を始めるときは、一人ではちょっと無理ですから、指導者のもとで始めましょう。
 瞑想も、心をニュートラルにするのに効果的。なかでも、歩行瞑想は、「今、ここ」を味わうにもってこいの方法です。一日何分かでも続けると、感覚は研ぎ澄まされていくはずです。日常生活では、草むしりや雑巾がけといった作業もいいですね。
 しかし「一瞬一瞬が大事。それしかないのだ」ということがよくわかる究極の方法は、逆立ちです。なぜなら、逆立ちは、余計なことを考えたら、たちまち倒れてしまいます。崖を下りるのに近い緊張感が、その場ですぐに手に入ります。逆立ちは、何も考えないという状態に、もっともすみやすかにしてくれますね。直前まで何かの気持ちをひきづっていたとしても、パッと切り替えることができるのです。逆立ちができたら、それだけで十分といえるくらいです。私も、毎日というわけではありませんが、”ふと”逆立ちを始めてしまいます。
 最後に、呼吸法についてお話しましょう。現在、呼吸はさまざまな方法が結合されたものがいろいろあります。人それぞれに、自分のからだに即したベストの呼吸法というものがあると思います。要は、「吐く息を、長く、深く、なめらかに」。たいていの人は、吐ききっていないのに吸ってしまいます。新鮮な空気に入れ替わらない状態です。吐ききると、入ってくる空気は新鮮ですから、心身の安全にもつながります。
 意識して「吐く息を、長く、深く、なめらかに」を続けているうちに、からだに即した自然の呼吸法がわかってくるはずです。無理に一定な呼吸を目指さないでください。ムラがあるのは自然なことです。
 逆立ち、歩行瞑想、呼吸法など、生活のなかに無理することなく取り入れて、どうぞ心の風通しをよくしてください。人生の道中が愉しいものでありますように。
(文・佐竹茉莉子)
歩行瞑想を通して、「今」に対する集中力を持続させる訓練をしましょう。歩行中のさまざまな身体感覚の一つ一つを「今、ここ」として詳細に味わうのがポイントです。
手はみぞおちのあたりで組むか、ダランとしてもかまいません。速度はなるべくゆっくり歩きましょう。

.歩く距離を決める。自分で決めた2点を往復する。距離は6〜10メートル程度に設定。
.言葉で「大地を踏む」「踏む」「踏む」と念じ、大地を踏むその感触に意識を集中させる。
.「足を上げる」「踏む」「上げる」「踏む」と言いながら、それぞれの感触をじっくり味わい、ゆっくり歩く。
が慣れてきたら、「足を上げる動作」と「踏む動作」のあいだの重心の移動も意識する。はじめは難しいので、「踏む」と「上げる」のあいだに、「重心を移す」という言葉を入れて、重心の移動を実感する。
.だんだんに、言葉を頭から消すことを心がけ、より感触を味わうことに集中する。慣れてくると、重心の移動を、内部感覚として詳細に実感できるようになる。

途中で歩行への意識がはなれ、考えごとをすることがありますが、そのときはすぐに「思考」を手放し、意識を歩行に戻しましょう。


参考文献:玄侑宗久・樺島勝徳共著『実践!「元気禅」のすすめ』(宝島社)
「清流」2007年10月号
「清流」2007年10月号