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お寺でお経を聞いていて、「ああ、美しいなあ」と思われたことはありませんか? 意味はさっぱりわからないけれど、読経の響きそのものに引き込まれたという経験、ないでしょうか?
私も禅僧という職業柄、毎日本堂に行って、般若心経を唱えています。その都度、声がからだに沁み入り、脳が活性化してゆくような、なんとも言えない心地よさで満たされます。
読経が脳によいというのは非科学的な話に思えるかもしれません。ですが、あながち間違いとは言い切れません。
お経には、古代インドの言葉を意訳せず、当時の音読のまま取り入れている部分があります。これは陀羅尼と呼ばれ、例えば般若心経の中でも咒文としての役割を果たしています。最後のくだり、「羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶」で終わる部分があるでしょう。実はこれらの音は、響きの効果が探求されたあげく、
選び抜かれた音によって構成されています。
ちょっと唱えてみてください。「ぎゃあ」「てえ」「ぎゃあ」「てえ」「はら」「そお」「ぎゃあ」「てえ」……。「あー」や「おー」の響きで心を落ち着け、目に見えない世界への広がりを意識し、そして「え」の音で跳ね返るような勢いをつけるような気がします。繰り返すうちに瞑想状態にも導かれます。仏教を伝えたインドの宗教家は、音の力をとことん知っていたのでしょう。
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今、般若心経はブームを起こし、解説本も書店に山積みされています。般若心経の写経を実践される方は、お年寄りだけでなく、30代まで裾野が広がってきました。ですがわたしは、いきなり解釈を勉強したり、とりあえず写経から始めるより、まず何も考えずにひたすら唱え、丸暗記することをお薦めします。丸暗記して、無我夢中に唱える 。この暗誦作業こそが、お釈迦さまが修行で体得された「私でない私」の世界へと誘ってくれるのです。
これは般若心経でいう「空」の実践とも言えることなのかもしれません。丸暗記したお経を、わき目も振らず唱えることで、三昧、つまり坐禅と同じような瞑想状態に入ることができます。思考や感情が止まり、感覚だけが研ぎ澄まされる状態になるのです。そうするとどうなるのか。遠くの鳥の鳴き声や、部屋の中で空気が対流する音など、普段はあまり聞こえていない音が、実に明瞭に聞こえてきます。
例えば誰かと、一対一で会話をしている状況を思い起こしてください。会話に熱中すると、遠くの鳥の鳴き声や、テレビの音などの雑音には、気付かないことが多いでしょう。これは、脳が必要な会話音だけを選んで認識しているからです。
瞑想状態に入ったときには、それとは別の現象が起きているわけです。聴覚だけではありません。視覚も驚くほど澄んできます。非瞑想状態では気にならないような物までが、実によく見えてくる。視野自体が広がるわけではありませんが、ぐっと広範囲を眺められるようになります。坐禅中のお坊さんの眼がよどみなく澄んでいて、どこか遠くを見つめているようなのは、こういう状態だと思います。しかもこの三昧状態になると、えも言われぬ気持ちよさで満たされます。
わたしの寺の場合、最近は親族を亡くされたご家族などに、般若心経を覚えて頂くよう薦めています。朝晩1回ずつ唱えていれば、ほとんどの方が四十九日までに丸暗記できます。そういう意味でも般若心経の長さは、暗記するのに丁度よい長さです。あまり長過ぎると覚えられませんし、短過ぎるお経ですと、今度は暗誦中の緊張感が薄れ、なかなか三昧になりきれません。 |
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般若心経の実践は暗誦が第一であると述べましたが、中には写経したいという方もいらっしゃるでしょう。確かに、日頃、筆を持つ機会は少なくなっていますから、たまには静かなお寺で写経すると、体の中から清められたような気持ちになるのも分かります。
写経する際は大抵、お手本を渡されます。それを薄紙に下敷きにして、丁寧に丁寧に、なぞるように綴ってゆきます。般若心経は全部で262文字、唱えれば3分とかからないほど短いお経ですが、写経するとなると最初は1時間半はかかります。慣れてくると速く書き写せるようになりますが、それでも30分ほどはかかるでしょう。
さてお手本を下敷きにして書き写したものを見ると、自分の字ではないことに気付きます。つまり自分の字でないということは、普段の「私自身」ではない。このことが最も大切なのです。
慣れてきた人中には、般若心経は丸暗記しているのだから、お手本なんかいらない、自分の字で書いてみたいという方がいらっしゃいます。ですが、これは駄目なんですね。写経にしても読経にしても、目的は「私じゃないものを体現すること」にありますから。一見、没個性的ともいえるお手本を、ひたすら繰り返し模写することに、写経の意味が出てくるのです。
書道もそうでしょうね。先生や手本の影響を受けながら、上達してゆく。いくら達筆でも「私の字」なんてものは、そもそもないに等しい。いい字は「私の字」じゃないんです。「これが私の書」だと思って書く人は、功徳が足りない証拠です。
こういうこともあります。罪を犯した人が逮捕・勾留されると、写経を始めることが多いと聞きます。入院をきっかけに、写経を始めてみるというのも、よくあるケースです。何か大きな出来事があって、今までの自分を捨てて新しく生まれ変わりたいという人に、「私を捨てられる」写経が、その入り口となるからでしょう。
その写経にも脳にいい効果があるそうです。さらに毛筆を使うことの効果も大きいと、私は考えます。筆と墨で綴る作業は、技術的にも相当ハイレベルです。右左に、上下に筆圧を自在に変えながら、太さ細さをつけ、撥ねや払いもある。文字を書くのにこんなに多彩な動きをするのは、ほかの国の文化ではあまり見られません。つまり、絵を描くときのような美的要素を司る脳が働くのです。そういう意味でいうと、ボールペンや万年筆での写経は、毛筆ほど脳活性効果は得られないでしょう。しかも書いているときには同時に頭の中で唱えてもいますから、音声を認識する脳も活発化します。
写経や読経のとき、必ず正座で行なうでしょう。多くの方が億劫になるこの正座ですが、実は「慈悲の心」を呼び起こす役割があるのですよ。えっ、正座が慈悲に繋がるの? と、その関係性に驚かれるかもしれませんが、これにも医学的な根拠があります。正座をすると、自然に腹式呼吸になり、下腹部が鍛えられます。そうすると副交感神経が優位になり、右脳の働きがよくなる。右脳優位になるということは、愛や、いたわりなどの感性も養われるという寸法です。
「腹で分かる」という言葉がありますね。何も言わなくても、あうんの呼吸で理解するという意味ですが、日々、意識を腹に置くことでその人の受容力が大きくなり、寛大にもなれるということでしょう。毎日、30分でも正座をし、読経や写経をするだけで、慈悲の心が養われるとすれば、普段仕事に迫られてイライラしている方には、ぜひ、読経や写経を実践して頂きたいですね。
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撮影:矢幡英文 |
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「日経おとなのOFF」2007年1月号 |
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