自分とは自然の一部で刻々と変わるもの
 行政や企業の不祥事が相次ぎ、いじめや少年犯罪が絶えない現代の日本。大人も子供もストレス社会を生きているが、僧侶で作家の玄侑宗久さんは多様な価値観を認める日本古来の八百万(やおよろず)性が失われたことが大きな原因だと指摘する。
 「自分というのは自然の分身、自然の一部なのです。だから自然と同じように刻々と変わる。でも今は個性、個性と言う。個性というのはキリスト教社会の考え方です。神様からいただいたペルソナ、つまりパーソナリティー(個性)が初めからある。これは元々日本人の発想にはなかったものです。昔の武士は元服すると名前を変えた。作家や画家には雅号もある。役割が変われば名前も変わるというのが日本人の考え方で、自分の中に八百万に住んでいるのです」
 「礼儀正しく勉強も運動もできる子がある日、近所の家の牛乳を盗んだとします。昔の人たちはこれを出来心として受け止め、良い子という評価は大きく変わらなかった。今だったらどうでしょう。おそらく、その子はとんでもない子という
烙印(らくいん)を押される。個性は神様がつくったものだから褒められるものでなくてならない。これは大きなプレッシャーです。個性重視が子供たちのストレスを生んでいる」
 今の日本は欧米的な考え方を無批判に受け入れ過ぎると警鐘を鳴らす。
 「キリスト教では神様が人間をつくったけれど、エデンの園を追放され、原罪を背負っている。人間は悪いことをしかねないから契約を結び、管理しなくてはならない。管理とか防犯、予防という発想はあくまで欧米のものです。今の日本は性悪説に立って人々をルールでしばる傾向が強いが、逆効果でしょう」
 「今話題の賞味期限も日本人の感性に合わない。食えるか食えないかは自分で判断すればいい。期限をうのみにして捨てるのはもったいないし、現物を見たりにおいをかいだりする能力も衰える」
  揺らぎを楽しむのが風流な生き方
 現代を心安らかに生きるにはどうしたらいいのか。玄侑さんは禅の知恵を生かした生き方「禅的生活」を提唱する。
 「禅的生活とは言い換えれば、予断を持たずに今の足場に立つということです。予断を持つから苦しみが生まれる。明日はこうなると思ってそうならなかったら、不愉快になるでしょ。先のことは分からないから面白い。何もかも予定通りに進む人生が楽しいでしょうか? 世の中は思うようにならないのが当たり前。そこに人生の妙味がある。想定外のことが起こると誰しも心が揺らぎますが、この揺らぎを昔の人は『風流』と呼んだ。揺らぎを楽しめる人こそ風流な人なのです。そういう心構えなら、困難があっても何とかなります」
 「医療現場で今、インフォ−ムドコンセント(十分な説明と同意)が広がっていますが、余命の宣告をするような場合、後で訴えられるリスクもあるし、短めの数字を言う傾向があると聞きます。数字を言えば、現実がそれに近づくことを期待するのが深層心理です。長めの数字を言うのは祈りだが、短めの数字を言うのはのろいと同じ。でも先のことは分からないのだから、分からないでいい。本来日本人は先のことが分からないということに耐性がある」
 「今という一瞬を楽しむのが禅の考え方ですが、人間はコーヒーを飲むというような目先の目標では飽きたらず、その先を目指す。優しい人になりたいという大きな目標があれば、いい学校に入りたいとか仕事の業績を上げたいという中期目標もある。厄介なのは中期目標です。これが人間の生き方を人工的にし、不安な気持ちにもさせる」
 「私も若い時は中期目標で苦しみましたが、今は目先のことと、はるかな目標だけを持つようにしています。現役時代はそうもいかないでしょうが、定年後のシニアの人にはこうした生き方を勧めたい。これが何の役に立つのかなどと考えず、すること自体を楽しんでほしいですね」
  寺はかつて文化センターだった
 禅のお陰で「楽に生きられる」と言うが、今に至るまでには様々な遍歴があった。
 「お寺の長男に生まれましたが、最初は坊さんになるのが嫌でした。でも反抗のためにも宗教を知らなくてはと思い、勉強した。様々な新興宗教も見て回った。自分の中の八百万が色々なことをやりたがり、大学時代にはナイトクラブのフロアマネージャー、英語教材のセールスマン、工事現場の作業員もした。方向性のない欲望に振り回されていましたね」
 小説家を志したが、断念。二十七歳で禅僧になると決意、京都の天龍寺で修行を積んだ後、実家の福島県三春町の福聚寺に戻った。寺で文楽や弦楽四重奏を上演するなどユニークな活動を展開する。
 「お寺は江戸時代まで学校、公民館、文化センターを兼ね、人々の集まる所だった。様々なイベントをやったのは気軽にお寺に来てもらい、仏教や禅について何かを感じてもらいたいと思ったからです」
 僧侶として生きるうちに気がつくとまた書いていた。
 「振り返って思うのは、人生では自分の意図しないことが起こるということです。禅僧になった時はまた小説を書くとは思ってもみなかった。でもお寺で新しいことをやるうちに書きたいという思いがわき上がってきた」
 予断を持たない生き方は自らの人生から得た実践訓でもある。生と死、死後の世界をテーマに小説を発表する玄侑さんに最後に聞いてみた。
 「死んだらどうなるのでしょう?」
 「なるようになります。心配しなくていい。予断が苦しみを生むのです」
(編集委員 藤巻秀樹)
日本経済新聞・夕刊 2008年2月14日
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