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| 「まあ、そう慌てないで。今、お茶がきますから。それまでこの掛軸でもご覧ください」 芥川賞作家で臨済宗の僧侶でもある玄侑宗久さんは、座布団に座るなり「では、さっそく……」と取材を始めようとした記者に、ゆっくりとそう言った。 その一瞬の間が曲者だった。頭の中が真っ白になって、用意してきた質問だの疑問だのが、すっからかんに跡形もなく消え去ってしまったからだ。 玄侑さんが指し示した掛軸は江戸時代くらいのものだそうで、一見水墨画のようだったのだが、よく見ると幽霊のような女性が卒塔婆を片手に持ち、切り株の上に座っている。その足元には骸骨が転がっている。モチーフが何か伺うと卒塔 婆小町だという。小野小町が深草小将に取りつかれたなれの果て、というわけだ。そんな話をしていると、あっという間に時間が過ぎてしまうのだが、いかんいかんと思っても、もう記者の脳みそはいつものペースを取り戻せない。気がついたときには僧侶の教えを請う弟子の気持ちになっていた。 今週紹介するのは、その玄侑さんの新刊『ベラボーな生活 禅道場の「非常識」な日々』だ。 本書は19年前、禅宗の道場に入門したときの回想録。 入門願書片手に道場に行っても丸3日間は追い出される、いちばん厳しい修行では8日間ほとんど眠れない、托鉢するにも免許証がいる。不眠不休の修行期間にたべるけんちん汁、坐禅をするということは手足の禁欲につながる、やくざの世界でも真似してしまった背中流しの儀式、などなど、知られざる禅道場の中身が綴られている。 「禅道場に入門した27歳のころは、職業として僧侶をやろうとは思っていませんでした。しかし修行をしてみると、非常に厳しいが、とてもおもしろい。お坊さんの仕事は体すべてを使うということもよくわかりました。頭を使い、草むしりもすれば、イベントのプロデューサーもやる。飽きることがなかったんです」 そうして臨済宗の僧侶になるわけだが、いざ寺に戻ると日常に追われ、だんだんと禅道場での体験が忘れ去られていく。そこで今回あらためて、自分の原点を書き綴った。 どの一編も意外性と示唆に富み、宗教色も強くないし説教くさくもない。生き方指南書のようであり、最後まで飽きることなく読める。 |
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| ところで、坐禅がブームだとか、ダイエットのために禅寺に行くとか、「禅」とは日々なんとなく見聞きする機会の多い言葉だが、本書を読むと、そういったことのほとんどが禅の精神の、上っ面だけをなぞっていることに気づく。 この禅ブームについて、玄侑さんは、 「みんな合理性の限界を感じているのでしょうね」 と分析する。 すなわち、今、我々が生きている時代は個を前提にして「こうしたい」「ああしたい」があり、「そのためにはどうすればいいのか」を追求する。だが、個とはエゴの塊であり、エゴを追求したところで、どこまでいっても幸せには向かわない。 このことを玄侑さんは工学用語を使い「プロジェクションとコントロール思考の跋扈(ばっこ)」と説明してくれた。 「何かを計画、つまりプロジェクトを組んで、それが実現できるように事態をコントロールしていく。本来、我々の頭程度で考えられるプロジェクトなどたいしたことはないのに、”こうありたい”をあまりに過大に考えすぎてしまい、その歪みが現れてきているのではないでしょうか」 教育現場で考えればわかりやすいかもしれない。 教師が子どもに「毎日挨拶しよう」と教える。子どもは「どうして挨拶しないといけないのですか」と尋ねる。ところが説明する先生も「どうしていけないのか」は知らない。だが、持っている知識だけで必死に説明しようとしてしまうので、本来の意味がものすごく矮小化されて伝えられる。子どもはその欺瞞を見抜くので、この「挨拶しよう」は、どんどん本来持っている意味が薄れてしまう……。 「こういった”型”に宿った力は、そんな浅薄な理解で説明などできるはずもないんです。なぜするか、などわからなくても、とにかく型にはまってやってみる。それが禅道場のやり方でもあるのですが、そうしているうちに、じわりじわりと本来持っている意味が染み出して伝わってくるんです。それがいい。 世間の人は世の中のたいていのことは説明ができると思っているが、説明できる人生や時間なんて、つまらないじゃないですか」 まあ、そりゃそうなんだけれど、そうそう悩んでいる時間がないから誰しも焦り、答えをほしがるわけで……と内心クドクド考えていたら、もちろん見抜かれてしまった。 「すっきりするような答えがすぐに出ると思うこと自体、無理があるんです。禅問答などがまさにそうなのですが、正答があるわけではないんですね。その問いに対してあなたが答えたことのなかに、あなたがすべて出ているなら承認もされる。だから、自分の場合はどうなのか考え続けることが大事なのです」 ロジックを組み立てて真理を追究する禅は、仏教というより哲学のようで、何でもノリで答える昨今の日本人にこそ必要ではないかと記者は考える。 「禅道場では強制されつつも自由がありました。そこから考えると、枠組みもないところでの自由は本当に精神の自由をもたらすのか。そんなことを考えるきっかけになれば嬉しいですね」 玄侑さんの言葉を聞きながら居住まいを正し、凛とした気持ちで、もう一度掛軸を見た。なんだか清々しかった。 |
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| 文/品川裕香 | ||||||
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| 玄侑宗久さんの場合 | ||||||
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| そうですね……最後に読みたいのは、やはり自分が書いた『アミターバ=無量光明』でしょうか。これは死ぬ2ヶ月前から3日後までを本人の視点で綴った小説です。 やはり自分が死ぬときに、ここで書いたことが正しかったのかどうか、確かめないといけませんしね(笑)。 |
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| 「女性自身」2006年8月1日号(光文社) | ||||||