Close Up! 児童心理インタビュー クローズアップ!

日本流子育てのすすめ

大人の定見のなさや経済が、子どもをゆがめている。
子どもたちがこの国に生まれたことに、自信を持てる育て方を考えてみよう。

定見のない大人たち


今の子どもたちについて、どんなことを感じますか。
玄侑  子どもを育てる大人の側に定見がなくなっていると思いますね。場当たり的な価値観で物事を運んでいるように思います。
 尼崎でJRの事故が起きましたね。そうしたら、これから全車両に、運転に不都合が生じたとき緊急停止ができる装置をつけるという新聞記事が載っていました。大事故が二度起きないようにと考えているのはわかります。でも、その措置のために他にもっと大きな影響があるかもしれないという発想ができていないような気がするのです。この場合は運転手をもう全面的には信頼しないと言ってしまったようなものです。
 今の世の中は、人を信頼するという方向に進んでいない。昔の親は先生を全面的に信頼していました。先生に叱られたと子どもが言えば「お前が悪いことをやったのだろう」と当然のように言われた。その信頼に先生も応えていたのでしょう。
 今は親が先生を訴えることもある。すると先生も子どもに対して臆病になります。医療でもそうです。裁判になったとき、訴えられないという基準で治療法が選ばれる。しかし、それはもう医療じゃないですよね。
 教育の場面でも医療の場面でも、ここ一番の賭けというのがある。この子が立ち直るかわからないが、こういう指導をしていこう。それに応えてくれるかは、待つしかない。医療でも、この大手術に患者さんの身体が耐えてくれるかどうかわからない。それでも耐えてくれと祈りながら手術に挑む。そのとき、失敗したら訴えられると思っていたら、そういうことはできないわけです。
 信頼によって人は育つと思うんです。人を育てるという発想は、厳しくチェックするという管理型の発想とはまったく違う。経済的に利潤を追求するある種の企業では、そういう物差しで進むのも止むを得ないかなと思う。でも、学校の物差しはまったく別であるはずですね。ところが、そういう経済の考え方が、今は学校にも忍び寄っているのです。大阪教育大学付属池田小学校を襲った宅間守のような人物が出ると、すべての学校に警備員を配置しようということになる。今までのやり方で良かったこともあるはずなんですよ。でも、自信を持ってやっていないから、一つそういう事件があると、信頼の庭であるはずの学校に大きな変化をもたらす極端な措置が、もう大慌てで、全面的に取られていく。敗戦で日本の価値観はガラッと変わりましたが、そういう変化がしょっちゅうあるみたいなものですよね。

子どもは最も優れている


あまりにも簡単に、本質的なことを変更し過ぎているのですね。
玄侑  それに、自分の国に合ったシステムを作るという発想がない。外国でどうやっているかを学んできて、それを適用させようという発想になっている。その外国というのも、いわゆる先進国です。先進国というのは、ある種の物差しではかったとき、先に行っているというだけです。それぞれの国に違った物差しがあるはず。そこを自覚して、自分たちの国の物差しを持たないと、子どもたちがかわいそうです。今の日本では人の一生というものに対する考え方も変わってしまった。子どもは何もわかっていない存在だから、いろいろ教えて立派な大人にする。そしてその後ある年齢でピークが来て、やがて衰えていくという西洋型の人生観になっています。
 東洋ではそうは考えなかったはずです。子どもは神の子で、最も自由で優れた生命体である。それが言葉を覚え社会性を身につけることで、最も不自由な存在、大人になっていく。そして年を取るにしたがい、再び自由になっていくと考えた。西洋と東洋とでは、放物線の向きが逆というくらい考え方が違うのです。東洋の考え方にある、子どもは自由に発想でき遊ぶことができるという部分への尊敬が必要です。
 子どもは私に会うと「お坊さんだ、どうして頭を剃っているの」と聞きます。それにどう答えようか私が考えているうちに、低学年くらいの子どもだと、もう質問したことも忘れて、次の質問をしてくる。考えているのがばかばかしくなってくるわけですけれど、実際、どうして頭を剃っているのかなんてことは、大した問題じゃないんですよ。それを子どもはちゃんとわかっているから、次の興味のあることに移ってしまう。その大したことのない部分を、大真面目に生きているのが大人なんですよ。子どもは不機嫌になっても、何か食べたらすぐに機嫌が直る。でも大人はあいつは嫌な奴だと思ったら、頭の中でずっとその気持ちを保存してしまう。そういう概念の奴隷みたいな存在が大人です。
 瞬間瞬間に生まれては死に、生まれては死にというのは、人体の自然そのままですよね。細胞は今日いくつも生まれて、いくつも死んでいく。いのちは入れ替わりながら、一つのシステムを保っている。それを最も実現させているのは、子どもたちです。子どもは自由ですよ。あのようにありたいと思いますね。 

いのちはいのちから覚える


「いのち」を教えることを、どう考えますか。
玄侑  子どもに教わった方がいいんじゃないですか(笑)。これも大人の悪影響がありますね。たとえば虫が動いていますよね。動いていると子どもは触りたいんですよ。触りたいなあと思って、あちこち触っているうちに力の加減がわからなくなっちゃって、虫が死んでしまうことが起こる。でも彼らは殺そうと思っているんじゃないんですよ。殺すという概念がない時期があるわけです。
 いのちの教育をしようとしている大人の方がよっぽど、殺すという概念を持っている。そういう概念を教えてしまうのは大人です。まして今やインターネットで、その概念がとんでもなく肥大化した情報を、子どもでも自由に得ることができてしまう。大人は概念で、感覚や感情を拡大し、肥大化させるから、想像も絶するひどいことをするのです。そういう概念を知らず知らずに子どもに吹き込んでいるのが現状でしょう。
 そして、同じ映像でも、概念を身につけた大人が見るのと、そういうものがない子どもが見るのでは、与える影響は違うと思います。いずれコンピューターに触れることは必要になってくるでしょうが、低学年でコンピューターを教えるというのは、とんでもないと思います。



それはどうしてでしょうか。
玄侑  小さいころから触らせておくべきものは、もっと他にあります。それが虫であったり動物であったりするわけでしょう。チョウチョウの体って意外に弱いね、これ以上押したらちょっとヤバいね、というのは、触っていればわかるんですよ。そんなものの代わりにキーボードを叩いているからおかしくなるんですね。
 世界は不思議に満ちているじゃないですか。チョウチョウはなぜ飛べるのか、鳥や虫は何でこんな色なのか、どうしてこんなふうに動けるのか、そっちの方が面白いし不思議だし、楽しいと思うんですね。情報なんていうのは死んでいるよなもので、今、目の前で動いている命の方が、よっぽどスリリングです。そのことを体験させないと、子どもはおかしくなると思います。だから、コンピュータ教育と英語教育は、できるだけ遅らせてほしいと思っていますね。 

この国の文化に自信をもって


小学校での英語教育を望んでいる親は多いようです。
玄侑  私たちが何人(なにじん)なの? と言いたいですね。英語という選択は、ただ経済的価値だけで考えたに過ぎない。日本人とは何なのかというのが、まったく抜け落ちていると思います。
 日本人ができあがっていく中で、所作というのは大きいと思います。とくに正座をする民族は日本人だけです。だから大事にしたいと思う。正座では下半身が充実します。そして、呼吸が自然と腹式になっていくんです。西欧型の胸の大きい人々は胸式呼吸です。すると、自然に物事をロジックで考えるようになり、理性に偏ってくる。だけど下半身が充実すると、脳でいう右脳、感受性の部分が発達する。日本的な包容力というのも、正座によって培われる部分があると思います。だけど今や都会では、正座ができる畳の部屋が一間くらいしかないわけです。
 また今、日本という国では、大概の国の料理を食べられます。でも日本人が食べるんですよね。そのとき、何を食べても日本人だという食べ方があるわけですよ。食べる前に「いただきます」と言うし、器もなるべく口元近くまで持ち上げ、いい姿勢でできるだけ箸を立てて食べる。そういうことが基本として身についた上で、いろんな国の料理も食べようというのはいいでしょう。でも、箸も使えないうちに、ナイフとフォ−クくらい使えないと国際人じゃないと考えて、使い方を学ばせるのはどうなんだろうと思いますね。もし洋食はフォ−クとナイフで食べないとおかしいと思うなら、インド料理は手掴みで食べなければいけない。ナイフとフォークを使って食べるのと手掴みで食べるのは対等の文化です。そうしないのは、知らず知らずのうちに文化に優劣をつけているわけです。


そういった状況を変えるためには、どうしたらいいでしょう。
玄侑  家庭から変えていくか学校から変えていくかということで考えれば、学校から変えた方が早いですよね。家庭はもう変わり過ぎていますよ。家庭に日本的なことなんてない。
 今まで育ってきた価値観を、そのまま子どもに受け継がせようと思うのが、自然の文化の伝承でしょう。ところが、戦争が終わったとき、昨日までやれと言っていたことをする人を笑う世の中になった。親たちも昨日までやっていたことを、子どもにやれと言えなくなった。そこで明らかに大きな断絶ができましたよね。それから六十年たった今、家庭で伝えられるべきことの空白というのは、もう埋めようがないと思いますよ。家庭の役割を取り戻すというのは抜本的なことですけど、より早い回復を求めるなら、学校に期待するところが大きいですね。
 早くと言っても、教育の効果が出るのは五十年先と言われます。そのくらいのスパンをみて、もっと自分たちの生きている国の文化に、子どもたちが自信を持てる方向に直して欲しいと思いますね。小学校で、何でリコーダーとオルガンなんて外国の楽器を習わなくちゃいけないのでしょう。それだったら横笛と琴でも教えたらどうか。日本人なのに日本の音楽を知らない。こんな国って他にないですよ。

人は変わることができる


個性を尊重する教育についてどう思われますか。
玄侑  今は個性、個性と言うあまり、みんなで一斉に同じことがしにくくなっています。だけど、みんなと一緒にやっていることの中から出てくるのが個性なんですよ。一つの型にはまったとき、はまり切れずにはみ出た部分、それが個性でしょう。
 禅宗のお坊さんも、みんな本当に個性的だなぁと思いますけど、禅宗の修業では個性なんて認めませんからね。低血圧で朝起きられないとか、食べるのが遅いことが個性だと思っている人は、そうしてもいい環境にいるだけです。ただの習慣です。修行の場のように、そういうことが認められない環境にいると、治ってしまいます。そのような、個性なんか認めないという状況の中で、強烈に滲み出てくるものこそ個性なのです。早い時期に中途半端なものを個性だなんて思い込ませられたら、どんどん自分の可能性はせばまるでしょう。


小学生の段階で個性を尊重し過ぎるのはよくないのでしょうか。
玄侑   いけないですね。そもそも個性というのは、西洋から流れ込んだ考え方です。西洋では子育ての初めから違います。赤ちゃんを入れた揺りかごを寒いときにベランダに出して、子どもが泣いても手を出さない。泣けば誰かが来てくれるという思いをなくさせるためにね。最終的に自分が責任を取らなくてはいけないということを、揺りかごの中から仕込んでいくのです。神から託された一つの人格がペルソナで、その言葉を語源とするパーソナリティが、日本語では個性と訳されています。西洋ではパーソナリティをそれぞれの人間が持ち、神の名のもとに自分が最終的に責任を取るという考え方が徹底しています。子どもに個性があるという考えは、子どもを保護できないという発想と対になっているものです。
 ところが日本ではベタベタと言えるほど親が保護している。そこで個性と言われても言葉が意味を成していません。明らかに、個性という言葉は、単に日本語に置き換えただけの翻訳語なんですよ。個性という言葉を支える背景が日本にはない。
 日本人というのは、もっと環境性を重視するし、その中の縁に応じて自分の人生を実現していくという考え方をします。人間という言葉も人の間と書く。いかに人の関係性を重視しているかがわかります。
 今、あまりにも手軽に個性だなんていう言葉を使いすぎる。だから、罪をおかした人を許さない雰囲気があるんですよ。十四歳でとんでもない罪を犯した人が刑期を終えて出てきても、社会は受け入れない。それは、人は変わることができるという基本的なことを前提としていないからですよ。変わらぬ個性を持っているということを前提にしているからです。ナイフで人を刺すことが一生変わらぬ個性か。そうじゃないでしょう。
 私たちも、修行をすればガラッと変わります。変わると思っているから修行というものが有効なのです。変わると思っていなければ、教育も意味がないことです。

「旅」をさせよう


親や教師へのアドバイスを。
玄侑  根本に、子どもに対する申し訳なさを、少しは持ってもらいたい。子どもはとても自由な生き物です。管理しようと思っても管理できないくらいすごい存在です。しかし、それでは大人の世界は生きてはいけないから管理する。そこにはどうしたって歪みが出てきます。とても不便な生活を子どもにさせるのです。一つの生き方、一つの生命体の流れとして考えたとき、今この国にいる大人のようになるのがいいかどうかは、わからない。だけど、この国に生まれてしまったから、申し訳ないけどそこのところは耐えてね、という気持ちを、大人の側が持つべきだと思います。
 ただそれだけでは、親や教師の権威もないですから、あとは子どもが感じる余地を残すということですね。
 インフォームドコンセントという医学用語があります。十分な説明をして同意を求めるものです。この考えが教育の中にも流れ込んできている。つまり、これをしなさいと子どもに言うと、「どうして?」と訊かれるわけです。それに教師や親は真面目に答える方が多い。それが何か民主的であるような気がしているんですね。でも、どうしてやらなければいけないのかというのは、やってみないとわからないんですよ。やってみて本人がこういうことだったんだと感じることが、本人の宝になるんです。
 だから、子どもに訊かれても説明しないで、つべこべ言わず黙ってやれということが必要だと思うんです。そうすると本人が、その意義を感じ取る。黙ってやれというのは、子どもがいずれわかると思っているわけだから、本人を尊重しているんですよ。
 また、そのうちわかるからねという、気長な態度を持たないといけない。教える方が、すぐにいい人になりたがってはだめ。子どもに自分はこんないいことをやらせているのだと、その場で納得させたいわけでしょう。子どもを教える立場の人は、「そのうちわかるよ」「とにかくやりなさいよ」と言えるようにしたいですね。
 子どもが自分で確かめる。それは「旅」と言えます。今は、そういうことがさせられなくなっていますね。

「児童心理」2005年8月号