うつ・不安・悩みが消える! 脳が元気になる! 心の毒出し
ひとり坐禅 入門

日常を支配する欲から解き放たれ 心も体も芯から自由になる「禅的生活」の勧め

煩悩をコントロールする生き方の達人

 坐禅の目的は、結論から言うと、「意識を脳から下の丹田に移す」ことにあります。すると、押しつぶされんばかりになっていた日常の「欲」から解き放たれ、心も体も自由で伸び伸びとしてきます。物の考え方も、人間関係のあり方も、今までとはまったく違う、前向きで楽しいものになってきます。これが、いわば「禅的生活」です。
 なんだか佳いことずくめで、かえって警戒したくなるかもしれませんが、わたしは大まじめです。
 必ずしも禅寺に行かなくても、坐禅は一人でもできます。もちろん、今日始めて明日には効果が出るという訳にはいきません。しかし、坐禅の効用を理解し、親しんで実践していれば、必ずやそんな「生き易い暮らし」が開けてくるはずです。
 坐禅のどこにそんな力があるのか。まあ、時々まゆにつばしながらでも結構ですから、暫く私の話に付き合ってください。
 最初のキーワードは「煩悩」です。
 皆さんは「欲がなければもっと楽になるのに」と思ったことはありませんか。確かに、そのとおりです。「もっと能力を認めてほしい」「ルイ・ヴィトンのバッグや服がもっと欲しい」「もっとダイエットしたい」「子どもをもっといい学校に行かせたい」。もっと、もっと……。
 当然、欲のすべてが叶うわけではありません。むしろ、叶わないことの方が多いでしょう。だから腹が立つ。やる気が出ない、なんてことになってきます。煩悩とは、このような心のあり方と言っていいでしょう。
 ただ、厄介なことに、現実社会においては、必ずしも煩悩イコール悪と決めつけられない側面もあります。
 例えば、科学は「もっと」という欲求があってこそ進歩してきたのだし、腹が立つからこそ保たれてきた世の中の秩序というものがあるでしょう。煩悩とは、人間が進歩するための推進力でもあるわけなんです。ただただ否定するだけでは、現実的ではありません。
 使いようでは毒にも薬にもなるのが、煩。ならば、この煩悩を自分の中で上手にコントロールして、薬になるほうだけを引き出し、私たちの生きる力として役立てたらどうでしょう。それこそが坐禅の眼目になるのです。
 では、この厄介きわまりない煩悩のコントロールが、坐禅をすることによってどのように可能になっていくのか。
 話をできるだけ分かり易くするために、まず一つの前提を設けたいと思います。
 ある学校の30人のクラスがあるとします。このクラスの生徒一人ひとりが自分の心(煩悩)で、教室が自分の体であると考えてください。
 30人という数字はあくまでも便宜上のことで、禅には「一念三千年」という言葉もありますから、生徒数を300人にしたほうが適切かもしれません。いずれにしても、実際の私たちの心は、それくらいたくさんあるし、顔も性格もいろいろ。にもかかわらず、どの生徒も紛れもなく「私自身」なのです。


やがて訪れる「お悟り」の状態

 さて、クラスには担任の先生がいます。これがいわゆる「自己意識(自我)」、西欧でいうところのアイデンティティです。
 担任教師は、クラス全員が自分の言うことを素直に聞き、纏まるようにがんばりますが、実際の学校同様、そう簡単にはいきません。
 ある子は外に出てサッカーをし始めたり、ある子は居眠りをしていたり、またお弁当を食べだしたり、てんでバラバラです。
 この、担任教師の力が及ばない無秩序な状態が「煩悩無尽」。悩み多き、ふだんの心のあり方になります。逆に、クラス全員が一丸となって一つの方向に向かっている状態が「お悟り」になるわけです。
 なぜ、なかなか一丸になれないかというと、いちばんの原因は、どの生徒も自分がいちばん愛しいと感じているからです。
 だから意識(担任教師)の言うことを聞かない無意識が存在し、それが結果としてさまざまな煩悩を生み出すことになるわけです。
 坐禅を組んでいると、いろんな思いが浮かんできます。これは、今回の例に当てはめれば、教室にいた担任教師(自己意識)が姿を消した状態と思えばいいでしょう。
 放置された生徒(煩悩)たちは当然のことながらはしゃぎ回り、タガが外れたように、雑念が後から後からわいてくるのです。
 特に、坐禅初心者のかたは、坐禅を始めて暫くは、この煩悩のドタバタ状態に悩まされます。しかし、それに耐えながら、なおも続けていると、湧いてくるさまざまな想念に対していちいち反応しなくなります。ただ観て、ただ聴き、ただ感じるだけで、なんの判断もしない。脳の中はそんな状態になってきます。
 クラスの中の暴れん坊や、ワルなどの問題児も、相手のじっと誠実にされるとおとなしくなります。不思議なことに、坐禅中の脳内の状況も、慣れるにつれ、そのように静かになっていき、やがて煩悩のざわめきが収まった「寂滅」の境地に至ります。これが「涅槃」と呼ばれる、いわば「お悟り」の状態なのだと思います。
 ところで、脳の教室から姿を消した担任教師という自己意識は、お悟り後はどこにいるのかというと、おへその少し下にある丹田と呼ばれる体の中心に移っています。
 お悟りを経験したあなたは、常にその体の中心に自己意識が、つまり、「あるがまま」の自分があると感じるようになるでしょう。そして、そこに意識を置きつつ動かす体や心は、信じられないくらい動かしやすく、軽くなります。
 例の30人の生徒たちは相変わらず存在しています。でも、もう彼らに振り回されることはありません。
 その時々のあなたの立場に応じ、その力を一丸にして、最もたいせつな事柄に向けて意識を集中させることができるようになるでしょう。なにをするにも迷いのない、自由で爽快な毎日。それが禅的生活の始まりでもあるのです。

「ゆほびか」2005年11月号