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「たったひと晩で葉が全部落ちたんですよ。昨夜の寒さのせいで」
藍の作務衣姿の玄侑宗久さんが、そう言って指さす先に、いちょうの大木があった。冬の陽が、掃き清められた境内の木々を照らしている。福島県三春町の禅寺福聚寺は、山を背にして建つ古い寺だ。玄侑さんはこの寺の副住職。そして、小説やエッセイを次々と発表している売れっ子作家でもある。
「少年時代は、この寺の住職であった父の僧侶という仕事が、人の家の不幸で生活しているように見えました。だから、坊主になるのが嫌だった」
それが中学生のとき、来寺した高僧の姿に、「人間が、ここまで美しく佇むことができるのか」と感銘を受ける。日頃疑問に思う「お布施」について尋ねると、高僧は「入ってくるものはなあ、しようがないんじゃ」。
「今すぐに私が理解できなくても、10年くらいたてばわかってくれるだろう、という思いがこめられた返答でした。つまり、相手の”黙識”を信頼しているんです。黙識とは、その人のなかに眠っていて、やがて目覚めるであろうもの。遺伝子といってもいいが、仏教では『種知』(しゅち)といいます。性急さのみじんもない、高僧の待つ姿勢をすごいと思いました」
高僧の言葉を「なるほど」と思えるまでに、10年ほどの”さまよう”青春時代があった。高校生のときには、モルモン教や統一教会などいくつもの宗教遍歴を経た。童話や詩を書き始めたのも高校生のとき。大学に入って小説を書き出した。興味が分散して進む道が見えず、この厄介な自分をまとめられるのは宗教か、それとも文学かと悩み続けた。その頃、さまざまな職業を体験する。ナイトクラブのフロア・マネージャー、ごみ焼却場職員、堤防を作る土木作業員、英語教材のセールス、翻訳……。「縁あっての職業でした」と玄侑さんはさらりと言う。
「宗教か文学かそれほど悩むのなら、両方やればいいじゃないか」という、哲学を教えてくれた恩師の言葉に目の前が開ける。27歳から3年間、京都の天龍寺専門道場で修行後、生まれた寺に戻った。
「しばらくは小説を書くこともなく、僧侶の生活は合っていると思えて楽しかった。地域の中心的機関の役割を果した昔の寺の機能を取り戻したいと、お堂でコンサートを開くなどの”イベント和尚”をやってました。でもね、イベントって、やはり一過性の祭り。私自身がひっかかることに、多くの人もひっかかってほしいと思ったとき、書きたいという気持ちが湧いてきたのです」
デビュー作『水の舳先』に続く『中陰の花』で第125回芥川賞を受賞して以後の活躍ぶりは誰もが目にするところだ。よく聞かれる「僧侶と作家の両立で困ることは」の問いには、「両方とも一隅を照らすことなので困らない」と答えることにしていると、エッセイにある。
「あれはずい分カッコいい返事(笑)。結局、自分というものが八百万なんです。お経をあげたり、書いたり、庭を掃いたりしているときどきに、いろいろな自分が現われてくる。どれも本当の自分です。そして過去の自分はすべて可能性として”今の自分”という川のなかに、流れ込んでいるのです。でも、そのまま水に流してしまえないものもある。おそらくその淀みが小説になっていくのでしょう。 |
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