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禅の心を通じて、みなさんの不安や迷いにこたえます |
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物の見方を変えることで人はもっと自由な存在になれる |
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彼岸前の3月某日。なごり雪の残るなか、しだれ桜でも有名な福島の福聚寺に
芥川賞作家で禅僧の玄侑宗久さんを訪ねた。
今を楽しむための、生き方のヒントをもらうために。 |
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小さな川に架かった橋を越え、わずかに雪の残る坂道を少し上がったところにその禅寺はあった。作務衣姿で現れた玄侑宗久さんは、「ああ、どうぞ」と、ほの明るい寺の一室へと迎え入れてくれた。
福島の禅寺に生まれ、どう生きるべきかと悩み続けた20代。英会話教材のセールスマン、焼却場の作業員など様々な仕事を経験し、27歳で出家。現在、生家の福聚寺副住職を務めながら芥川賞受賞作家でもある玄侑さんは「今の私が生きるのが楽なのは、禅のおかげ」という。
そんな玄侑さんに、まずは今回のテーマである「ストレス」について聞いたところ、「ストレスは私たちが弾むために必要なものです」と、禅的発想の根幹につながる、前向きな言葉が返ってきた。
そもそも、生活というのは思うようにならないことを含んだものです。だから、まずは思い通りにならないことがあって当たり前と思うこと。当たり前だと思えれば、それはもはやストレスではなくなるんです。
私たち人間には、元来弾力性があるもの。ストレスという言葉は、中国では「圧力」と訳されているんですが、私たちは圧力があって初めて弾める存在なんです。だから、ストレスがすべて悪いものだとは言い切れないと思っています。
私たちは奮起するためのエネルギーになるような必要な圧力はストレスと呼ばず、嫌だなと思うものだけをストレスと呼んでいると思うんです。でも、実はそれらは等しく「圧力」であって、弾むために必要なもの。しかも、自分が今よりも環境に順応できる力を身につけるためには、「悪玉」だと思われているストレスはぜひとも必要なものなんです。
とはいえ、制約を与えられたり何かを課せられると人は不自由を感じる。でも「人生、ある程度の制約がないと楽しくないんです」と、玄侑さんは言う。
例えば、19世紀以前のヨーロッパのアートの世界ではどのアーティストにもお金持ちのスポンサーがいて、アーティストに様々な制約を課していましたよね。「わしの気にいるものを書いてくれ」とかね(笑)。その制約の中で彼らはアイデアと技巧を最大限に活かして、歴史に残るアートを次々と生み出していった、制約を与えることが結果的にアーティストの芸を磨き、広げることになったんです。
創作活動でも仕事でも、何の制約もない状態から生き生きしたエネルギーは出てこないと思うんです。相手を満足させつつ、そこにどれだけ自分のやりたいことを入れるか。そんな不自由さはある程度必要なものなんですよ。制約は考えようによってはストレスだけど、実は人を豊かにするものじゃないかと思います。
働いていると「どうして私がこんな仕事を」と、不満を感じることも多い。そんな私たちに「何かを行うときは、自分にとって都合がいいように解釈すればいい」と玄侑さん。
禅語に「遊戯三昧(ゆげざんまい)」というのがあります。「楽しいことをする」のではなく、「することを楽しむ」という禅的発想です。
働いていれば、嫌なことを頼まれる場合もあります。そういう時、そのままではやる気がわかないですよね。例えば、庭を掃くという行為には、庭をきれいにするという結果が期待される。でも私は「庭を掃除するということは、右手と左手を使った瞑想である」と考えたとする。そうなると、私にとってこの箒を使っている時間は無上の幸せなわけです。
何かを行うことの意味は私なりにつければいいんですよ。日常生活の小さなことも、自分の考え方次第で楽しむことは十分にできる。自分なりの自由な価値観を持てる存在であるというのは、大事なことですよね。
禅の思想では、自分を変えるほうが周囲の状況を変えるより手っ取り早いし、私の物の見方が変われば、世界に対する物の見方や受け止め方が変わると考えます。幸せ不幸せというのも、起こった出来事を受けとめる、その人の人生観次第ですから。 |
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幸せは、今この瞬間を感じているとき、味わっているときに訪れる |
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今やっていることに自分なりの定義づけをすることで「今を楽しむ」。それは幸せを感じるうえでのキーワードでもある。
私たちは小さい頃から、考えることはいいことだと教えられてきた。でも、幸せは考えた揚げ句に得られるものではないんです。
「やりがいのある仕事に就いたら」「優しい男性と結婚したら」「マイホームを手に入れたら」幸せになれるはず……と、幸せを獲得目標と考える人は多いですけど、将来の自分の幸せな姿を描いたところで、数年後、その状況が実現したとしても、人はその状況を幸せとは感じていないでしょう。幸せという目標はいつの間にか上方修正され、もっともっとと膨れ上がっていくものなのです。
そして、いつでも上方修正した目標を目指し続けるから、慢性的な不満状態に陥る。そうなると、頭の中で描く幸せは、不幸を感じさせる原因であるともいえます。
ゲットよりもリリース、「放下(ほうげ)」こそ大事なんです。所有や獲得は幸せではない。お金やモノ、地位や名誉に対する執着は、手放したほうが人は楽になるんです。
禅語に「日日是好日」というのがあります。「来る日も来る日も好い日である」ということですが、新しい一日は雨であろうと嵐であろうとみな新鮮で好い日なんです。
禅では我慢して時を過ごすのは時間の殺生と考えますから、楽しいことは将来に持ち越さず、今日という日、今この瞬間を最大限に味わい尽くすことを重視します。そして、幸せとは一日一日の中で、五感を使って感じたり、味わっているときに訪れるものなんです。
私たちは何かに向かわないと不安を感じ、目標を設定しては日々努力をするのをよしとしている節がある。そんな私たちに玄侑さんは言う。「過去に立てた計画をこなすことは、過去の自分に現在の自分を従わせるということです」と。
たしかに、ある程度の制約は人を生き生きとさせるうえで必要です。けれども、それが強すぎると苦しい。なかでも一番制約の強いものが、中間的な目標を持つことなんです。
例えばスキルアップに費やす時間というのは、結果が出なければその時間は無駄に思えてしまう。そして、今が素晴らしいかどうかは未来になってみないと分からない。それではちょっと寂しいですよね。
中間的な目標を立てて、それに向かって日々を費やすのは計画で動いているということ。計画や予定だけを見て動いていると、その瞬間に起こり得る楽しいことや、自分では考えつかなかった自分自身を開花させる機会を逃してしまいかねない。だから、思ってもみないことが入り込む余地を残しておくこと、今日はどうしようかなという「あそび」も、人生を楽しむには必要だと思います。
私の場合は今日明日のことと、はるか先の目標しか考えないですね。はるかな目標というのは、生きるうえでの本質的なもの。私の場合は、自分の中にまだまだ眠っているものをどれだけ目覚めさせられるか。それだけですね。
今がピークなんです。5歳も28歳も35歳も65歳も、みんなそのときが「完成形」。常に今が結論であるべきだし、今のあなたは既に完全な存在なんですよ。
今回、読者アンケートに多かった「将来に対する漠とした不安がぬぐえない」という声。将来について私たちはどうとらえればいいのだろう。
将来のことを考えてしまうのは分かりますけれど、将来というのはこれから無限な変数が入ってきて、どう変わるか分からないわけでしょ。今頭の中で描いていることは、所詮物語にすぎないんですよね。そうなると、綿密に将来について考えたところでほとんど意味がないんです。
禅の教えでは、これからの私というのは常に流動的なものだと考えるわけですけれど、一方で、一旦起こってしまったことはある種「天命」と受け止めます。理不尽と思えることにも実は理がある、その理を自分がまだ見つけていないだけ、死ぬことまで含めて理不尽なことに幅はない、という考え方なんです。
理を見つけるには、どんなことにも理があると強く信じることです。例えば、たまたま交通事故に遭った場合、とりあえず「そういう目に遭うことになっていたんだ」と思ってみる。その後、私はここから何を得ることになっていたのかと考えるわけです。なるほど交通事故に遭ったことで私はこんな新たな気付きを得た、だからこれは私にとってはどうしても必要なものだったんだ、と思うようにすることです。
「あの時別の道を歩いていれば……」「知り合いとの話に夢中になっていなければ……」といった後悔や反省、原因を探ることには意味がない。この事故は天命であった。起こるべくして起こった。誰のせいでもない。職場に嫌な上司がいることも含めて、理があるはずだと思うと、理は必ず見えてくるものなんです。
すべての出来事を天に預けることができたとき、人はとても自由になる。逆に、それを誰かのせいだと考えると、途端に人は不自由を感じ始める。よくない出来事の原因などを他人に当てはめているうちは、人は決して幸せになれないんです。
自分に自信を持ちたいからと、新たな資格にチャレンジしたり、スキルを磨いたりする人は多いけれど、「自信は、自信が持てる身体状況を作ることで生まれる」と玄侑さん。
自信というものに根拠を求めてはいけないんです。あれやってない、これやらなくちゃと不安になる人は多いですが、自信に獲得目標や獲得したことの裏づけはいらないんですよ。自信というのは、つまり自らを信じるということ。自分の中に今なお眠っている能力を最大限に信じる。そうすれば、ゆったり構えていられるじゃないですか。
それにはまず、自信がある身体状況を先に作っちゃうことが大事なんです。具体的には、重心が下にあって、気持ちが落ち着いていて、呼吸も深い状態。意識はへその少し下にある身体の中心部・丹田に置く。
「不動心」という言葉があります。どんなに周辺が動いたとしても定まっている、意識が体の軸にある状態のことです。車軸に軸がひとつ通っているとでこぼこ道でも前に進めるように、心の軸がしっかり定まっていれば、外側の出来事にとらわれることなく、自分を信じて冷静に判断できる状態でいられるんです。
子どもって、根拠はなくとも自信がありそうに見えませんか。子どもは重心も低いし勘もいい、いわば最高の状態なんです。ところが大人になると、思考をあまりに奉るから重心が上にあがってしまう。どんどん勘が鈍くなってきて、それを言葉と計算でごまかすのが大人。そこからもう一度言葉と計算の能力が衰えて、本来の勘が戻ってくるのが老年。
だからこそ、大人は身体の内側に意識を沿わせることで、言葉と計算のない世界に行くことが大切なんです。例えば、手から肩にかけて自由にくねらせてみる。その動きを追いかけることだけに意識を向ける。それだけで、身体は本来の力を取り戻し、次第にほぐれていくんです。
同時に、身体の内側に意識を向かわせるということは、私の意識が100%「今」にあるということ。それが「今を生きる」ということであり、今この瞬間を味わいながら生きることが、幸せを感じられる唯一のあり方なんです。
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「日経WOMAN」2005年6月号別冊付録 ―心とカラダのセルフケアブック―
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