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こちらの福聚寺の副住職をお務めになりながら、作家としてもご活躍なさっています。二つの立場は、どのように折り合いがつけられているのでしょうか。 |
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玄侑 若い頃は、どちらかを選ばなければならないという思い込みがあって、ずいぶん悩みました。どちらかと言えば小説家になりたいと思って、寺の外の世界をいろいろ見て回っていました。ところが、書いても書いても、なかなかものにならない。そんなとき、哲学者の星清先生から「両方やればいい」と言われたんですね。なるほど、考えてみれば、図書館の分類学じゃあるまいし、私にとって坊主であることと作家であることが、同じことである可能性だってあるわけです。一般的な区別が、私にとっては無意味ということもある。思えばどちらの活動も、自分にとって不可思議な世界を探ろうとする行為です。それがわかって、ついに二十七歳のとき決心して天龍寺に入門したんです。
だから今も、あまりその二つの立場という区別はありませんね。 |
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日本古来の「やおよろず性」を見直す |
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そういうお立場から、日本の現状をどう見ておられますか。 |
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玄侑 海外から、いろいろなものや考え方が無秩序に入ってきて、人々に対しその時々の都合に合わせた価値判断を押しつけている。その結果、もうてんでばらばらな状態になっているというのが、今の印象ですね。
すべてのものはつながっている。トータルとして見なければならないということが、忘れられているのではないでしょうか。
例えば、ダーウィンが進化による変異の頂点を極めたものだと信じていた蘭です。蘭は受粉を特定の生き物に頼っています。まず、ある種の蘭が独特のにおいを放つんですね。そのにおいに引き寄せられて、そこに蝿が寄って来る。その蝿を狙って、蜘蛛が来る。今度はその蜘蛛を食べようと、その蘭独特の形状にあった蜂鳥(はちどり)が飛んで来る。蘭を受粉させるのは、この蜂鳥なんです。このすべてがつながっていることによって初めて、蘭は受粉し、子孫を残します。
蘭がにおいを出しても、蝿や蜘蛛がいなければ、受粉は起こらない。ところが、この蝿や蜘蛛を排除してしまう思想が、今の日本の現状だと思います。思想とは呼べませんね、それは。
植物でいうと、根っこは切ってしまって、花だけを持って来るという発想になってしまっている。最近、企業でもヘッドハンティングで花だけを取ろうという発想が強くなっているのではないでしょうか。根っこという日本の文化、蝿や蜘蛛といった「縁起」を大事にしないから、その場限りで、育てる気持ちがない。完成した花を消費するだけですよね。
これがに関連しますが、もう一つは、社会のいろいろな面で、人々の意識の中で、大らかさ、寛容さが失われ、異論を排除する狭量さが蔓延しているのではないかと感じます。一つの物差しだけで正しいか否かが二者択一に判断され、ぶれを認めず、均一化しようという考え方ですね。しかも、その考え方がグローバル化や情報化といわれるものの中で急激に加速されているように思います。
私は本来、物差しは一つではなく、たくさんあるべきだと思っています。
もともと、日本にはやおよろず(八百万)の神々という考え方があって、さまざまな存在を対等に認め、多様性を重視する価値観が大事にされ、培われてきました。それがこの国を心豊かな潤いのある国にしてきたのです。江戸時代の幕藩体制もそうでしょう。各藩が独自の文化、言語を持って、それぞれの自治がある程度認められるという“緩さ”があったから長く安定し、各地域の魅力が輝いていたのです。
そろそろまた日本らしく、他者を対等に認め、共存していくという、そういう優れた文化にもっと誇りを持ち、世界にも発信していくべきではないかと思いますね。 |
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それは一人の人間の中にも、幅広い可能性を認めていくべきであるということですね。 |
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玄侑 その通りです。人にもやおよろず性があるということです。「乾坤只一人(けんこんただいちにん)」という言葉がありますが、自分一人の中には宇宙的なほどにあらゆる可能性が凝縮されています。
「ころころ」と変わるから「こころ」という言葉になったように、心は無限に変化し、鬼にも観音様にもなり得る。だから、自分の理解の範囲で自分を見くびってはいけない。決め付けてはいけないのです。
実現すべき自分を自分で追及するのではなく、むしろ、「ご縁」に任せて、偶然や廻り道によって違う自分が生まれてくるのを楽しむ方がいい。今現在、実社会でたまたま一つの生き方を選択しているが、それは便宜上選んでいるんだという意識を持つ。そして、大事なことは、他人をもそういう存在として認めてあげることです。 |
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今の意識が知らない世界が存在する |
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ところで、芥川賞を受賞された小説「中陰の花」は、生死の境をテーマに書かれた作品ですが、私たちは死というものをどう理解したらよいのでしょうか。例えば、インドでは輪廻転生が信じられていますが。 |
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玄侑 輪廻転生は、古代においては、おそらく世界中で信じられていたと思います。その後、キリスト教では命の循環という考えが否定され、天国に向かうという一方通行の考えに変わりました。
これに対して、インドやチベットでは今も輪廻転生が信じられています。お釈迦さまも説かれていますが、インドでは基本的に輪廻が苦しみとして理解されています。ヒンドゥー教と仏教の考える輪廻は違いますが、ともあれ命というエネルギーが形を変えながら展開していく。お釈迦さまが「解脱」と言ったのは、その連鎖から脱するという意味です。
この輪廻思想は、中国を経由する過程で、否定されて日本に伝わります。でも、実際は、輪廻とか前世という考えが日本人に深く浸透していることは、皆さんよくご承知ですよね。
さて、死をどう理解するかですが、私自身の臨死体験や病気にかかって意識不明になった体験、そしてさまざまな修行、考察を通して言えることは、われわれは死の瞬間まで今の意識が続くのではない、したがって、そのとき、今の意識ゆえに感じる恐れや不安は無いということ。もう一つは、あの世とか魂と呼ばれる、今の意識が知らない世界が存在する可能性を、否定できないということです。
話は飛びますが、理論物理学者のデヴィッド・ボームという人が提示した概念に、目に見える世界としての「明在系」に対する「暗在系」という概念があります。彼の定義によれば、「暗在系」とは「素粒子の霧」のような状態のエネルギーであり、そこには時間も空間も地球も太陽もあらゆる物が渾然一体となって畳み込まれていて区別が無い。もちろん、次元が異なるので、われわれには感知できないのですが、それはいたるところに均等に存在し、そして、絶えず「明在系」と行き来している。暗在系の全体運動こそが生命力の源となっていると言うのです。私は、この「暗在系」というもう一つの宇宙に「あの世」をイメージするとともに、「瞑想」や「悟り」によって得られる体験も実は「暗在系」への行き来ではないかと考えています。悟りというのは、自己がほどけて自他の区別が無くなった状態で、いわば、全体性への回帰であり、宇宙意識と一体となることでしょう。
よく、人は死ぬとき体重が減ると言いますが、「宇宙の総エネルギーは常に一定」という法則に従えば、われわれがこの身体を離れ、エネルギーという暗在系の全体運動に戻ることが死であるとも言えます。
現に、アメリカでは体重の減少、言うなれば「魂」の重さを測ることが行われていますが、われわれはむしろ「意識」というのが、かなり大きなエネルギーだということを想うべきでしょうね。
昨年、東大の古澤明先生が、量子を三者間で瞬間移動させる実験を成功させましたが、もしかしたら、私たちの体をつくる量子も意識も、死の瞬間に消えるのではなくて、膨大なエネルギーによって展開し、なんらかの形で存在し続けていると考えられませんか。 |
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時間を連続させないで考えれば、人生いつだって今が最高の時です。
だから、生きていくのが楽しくなります。 |
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そういえば「中陰の花」の中の、十万億土のかなたにある極楽浄土に四十九日かかって行き着くには、計算上、光と同じ秒速三〇万キロのスピードで行くことになる、という話が書いてありますね。 |
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玄侑 こういう話にはついていけないという人も多いと思います。でも、そもそもわれわれが理解できないことなど、いくらでもあります。ただ、それはわれわれの知性、認識の問題であって、納得できないからといって、存在を否定することはできないのです。
『碧巌録』という本に「天地と我と同根、万物と我と一体」とありますが、お釈迦さまをはじめ、多くの先輩が瞑想し、同じように実感、認識してきたことが、暗在系という「あの世」を垣間見たということだとすれば、それはもう経験科学とも呼べるのではないでしょうか。私はそう信じます。
死んだらまったくの無に帰するという考えもありますが、そういう考えに人生上の利点があるとは思えません。人生は連続していると思えるからこそ生きがいが生まれ、成長もするのではないか、と思いませんか。 |
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「うすらぼんやり」と生きれば 物事の本質が見えてくる |
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私たちが日常を生きていく上で大切なことは何でしょう。 |
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玄侑 誤解される言い方かもしれませんが、「うすらぼんやり」と生きてみてはどうでしょう。「うすらぼんやり」というのは、半眼で坐禅しているときのように、”見るともなく見ている”、何か一つのものに集中せず、全体を見ている状態です。そうした状態に自分を置くと、いわば意識を拡散させたまま集中している状態となり、心身がほどけてニュートラルに戻り、感情が消え、言葉や文字が消え、二元論による価値判断も無くなります。
難しいように思われるかもしれませんが、今試しに、目の前に人差し指を立てて、その指を含む景色全体を「うすらぼんやり」と眺めてみてください。するとやがて、指が二本に見え、そしてその指の像を透かして向こう側に見えてきます。そして、その状態になると実にゆったりとした、リラックスした気持ちになっていることに気づくはずです。それは、理性が閉ざされて、瞑想の世界に入ったからだと言えるでしょう。その状態になれば、ありのままに全体が浮かび上がってきます。大局的に、そしてすっきりと物事の本質が見えてくるのです。
逆に、何かに焦点を絞ることは、全体を見ないことになります。ニュートンがりんごが落ちるのを見て万有引力を発見したように、歴史に残る大発明や大発見も、思惑どおりになされたわけではありません。なんとなく眺めていたり、思っていたときに、ひょんなことで本質が見えてくる。これは、事業を進める上でも大事なことかもしれません。 |
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「日々是好日」とは |
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玄侑 もう一つは、毎日、毎日を存分に楽しむこと。「日々是好日」と言いますが、大事なことは、一日を独立した日として意識して、今この瞬間を初心で楽しむということです。たとえ雨が降り続いていても、昨日に関係なく新しい一日に出会ったのだから、それが雨であろうと嵐であろうと、新鮮な出会いと受けとめるのです。昨日とか明日はありません。いわば、日ごとに生まれ、死ぬんだと考えればいいのです。
そういうふうに時間を連続させないで考えれば、六十になっても、七十になっても、死の瞬間まで、人生いつだって今が最高の時です。だから、生きていくのが楽しくなります。自分で歳をとったという先入観が歳をとらせるんです。
そもそも時間というのは「一瞬一瞬の今」を頭の中でつなぎ合わせたもの。私たちが生きているのは、今この一瞬でしかないのです。だから、過去の悩みを蓄積させてはいけません。過去の縛られてはいけない。だって、新しい一日が始まれば、昨日はもう残っていないのだから。反対に、将来にも貸しを残さない、果報を期待しない。明日は何が起こるかわからないのだから。一瞬一瞬の状態で差し引きゼロがいいのです。
別の言い方すれば、現状を全面的に肯定してみるということです。今の自分の状況はすべて自分が欲したことだ、望んだことだと思うのです。それが、どんなにつらく情けない状態であったとしても、いわば「方便」としてそう思ってみることです。今というこの瞬間にそう思い切ってしまえば、新しい力が湧き、次の瞬間への道が開けてきます。
それが「知足(足るを知る)」の認識であり、自ら安心を創り出して行く「安心立命」への道です。 |
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そういうふうに過ごせば人生はもっと楽しいものになりそうですね。本日は貴重なお話をありがとうございました。 |
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【聞き手: 編集人・七枝敏雄】
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