玄侑宗久/季節だより「喫茶去」
 摘みを歌った「夏も近づく八十八夜……」にはちょっと早いですが、「まぁお茶でもどうぞ」。
 喫茶去の「去」は、去るという意味ではなく、「喫茶」ぜんたいにかかる助字ですね。
 喫茶去は「お茶を飲んだら帰れよ」ではなく、「まぁお茶をどうぞ」というだけの意味です。
 中国唐代の趙州和尚は、あるとき、一人の僧に「前にここに来たことがあったかな」と訊きます。「はい、あります」。すると「まぁお茶でもどうぞ」。
 別なときに来た僧にも訊きます。「前にここに来たことがあったかな」。「いや、ありません」そこで「まぁお茶でもどうぞ」。
 その問答を聞いていた院主さんが不思議に思い、どうして相手の答えが違っても同じように「お茶でもどうぞ」なのか、その真意を問うと、趙州和尚は「まぁ院主さん、お茶でもどうぞ」。
 前に来たことがあるかどうか、そんなことには意味がないよ、とハッキリ言ってるわけです。つまり、履歴や歴史は関係ないということですね。
 たとえば車を運転するにしても、現在位置がわからなければ向かう方向もわかりませんから、運転できないでしょう。
 ところが頭の中を過去の記憶や未来の予想でいっぱいにしながら運転しようとしているのが私たちの普段の生活じゃないですか。危なっかしくてしょうがないですよね。
 「まぁお茶でもどうぞ」とは、私たちを現在位置という「今」に引き戻すための言葉なのです。
 思いとは流れているものを止めてつくるものです。その思いをほどいて流してやるんです。お茶を飲んで昨日の私は捨てるわけです。捨てようと思って捨てるのでなく、只管喫茶する。頭の中をお茶を飲むことだけにするんです。
 時代劇でも「てえへんだ、てえへんだ」と駆け込んでくると、まず「水でもお飲みよ」っていうシーンがあるじゃないですか。それでちょっと頭の血を下げて、それから話してもらうというような。
 それは、日本の礼儀作法の中にも組み込まれていますよね。来客を迎えたら、まずはお茶。そのお茶を飲むことを日本人は一つの文化にまで持っていったわけです。その原型みたいなものが「喫茶去」なんですね。
 栄西禅師の書いた『喫茶養生記』の喫茶は、修行している人間が、
懈怠(けたい)の心を去るようにするため、要するに、覚醒させるという意味合いでお茶を飲みます。
 覚醒とは、仏教にとっては大切なことで、「今」に焦点が合うということです。それは予断を捨てるということで玄侑宗久もあります。
 それができにくくなっているのが、今のサラリ−マンじゃないですか。だいたい会議しようという時すでにレジュメがある。
 せっかく大勢集まって会議するんですから、その場で話し合えばいいいでしょう。ところが集まる以前に議論のあとの結論が想定してあるんですから、これはどう考えてもおかしい。レジュメを作ったのは2、3日まえかもしれませんが、2、3日まえでも、それはすでに昔です。状況はどんどん変わってきますから、過去の計画はいったん流して、「今」の状況の中であらためて考え直さなければいけないんです。
 せっかく頭数そろえて会議を開き、アイデアを聞こうというなら白紙でいいんです。レジュメがあること自体、喫茶去に反するんですよ。
 「今」を、なるべく過去とか未来に侵食されないようにする。つまり、過去の時間があって今があるっていうのが常識ですけど、その過去を切っちゃうわけです。
 過去の経験を生かすと、そこそこのことか、それよりちょっといいかなっていうことしかできないんです。でも、隔絶した「今」の中に入ると思ってもみなかった力がでる可能性があるんです。過去の経験は活かさないことが大事です。
 もちろん、技術などは修練を積み上げて出来上がるものです。しかし禅は積み重ねよりも、すでに一切が過不足なく私の中にあると見て、むしろ捨てることを重視するんです。 
 私の中にあるものを目覚めさせるためには、求め続けることは必要です。
 道元禅師の言葉で言えば、私たちは常に自己を
現成(げんじょう)させ続けていく存在ですから、「これでいい」ということはありませんし、終わりはないんですね。しかし、基本的に自分の中には、あらかじめ全てがそろっているということは信頼しておきたいですね。
 初期状態で全てそろっている。それが「足るを知る」です。その原点に還れと、喫茶去は言っていると思うんですね。
 ひたすらお茶を飲む。そのことだけに集中するのは難しいようですが、坐るだけの坐禅と違い、行為がある分、楽なんです。とはいえ、常にそれを実行することは難しい。日常的でありふれた行為ですから尚更ですね。そこに自分の全精力を注ぐことができたら、あとはたいがいのことはできるでしょう。まずは無心にお茶を飲むことに、徹することです。
「ダーナ」2008 spring 平成20年|春号