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が香にのつと日の出る山路哉(芭蕉)
この俳句のように、梅はどこの庭にも香る庶民的なイメージがあります。と同時に、梅は厳しさを感じさせる花ですね。
「是れ一番寒骨に徹せずんば、争でか得ん梅花の鼻を撲って香しきことを」
寒ければ寒いほど、梅は強い香りを放ちます。そして、まだ風も冷たいときに、いち早く春の兆しをもたらします。まわりが寒いなかに咲く。まことに清らかだし、温かで、実にいい感じですね。
春がきたから梅が咲くのではない。梅が咲くので春がくる。
そういう見方も、できるわけです。
「春は梅梢に在って……春は梅の梢に在り……雪を帯びて寒し」(『正法眼蔵』「梅華の巻」)
季節はまだあらかた冬。そのさなかに咲くことで、早春を呼び込んでしまう。
自然に春が来るのを待っているのではなくて、寒冷な雪の中に、梅が咲くことで春を呼び込もうとしている。
これは、私たちの生き方でいうと、つらい境遇のなかに、ちょっとしたよい兆しを見つけてゆく。そのことで、よいことがどんどん膨らんでいくことでしょう。
うれしいから笑うのは普通ですけれど、笑えばうれしくなるんです。笑うことで、福を呼び寄せる。そういう気分が、梅の花にはあるんですね。
新年や2月には、梅の花にまつわる掛け軸などをかけます。実際に梅が咲くちょっと前にかけて、梅華を呼び込む。実際の季節より少し早く着物の柄も選びますよね。まだ秋が深まらないうちに萩の帯をつけたりする。私たちは、いつでも、季節をちょっとだけ先取りするんです。
冬であっても気分は春にする。私たちがまだ春の兆しを感じられない頃から、梅は春を感じているわけです。
寒冷のときは、自分の持っていきようで身体をいくらでも温めることができます。
たとえば、呼吸法ひとつでも温かくなる。吸い込んだ息をぐっと丹田に押し込んで、とめる時間を長くするだけで温かくなります。
自分の振る舞いひとつで、環境のなかに新しいものを作っていける。
そういう意味では、この寒冷の季節というのは、楽しい季節であり、しかも清らかなんです。
『正法眼蔵』に、「柳・梅・桃・李を描かずに、春を描け」という言葉があります。
梅を描けば早春の雰囲気が、桃を描けば春の雰囲気が自ずと伝わります。それを描かずに春を描けというわけです。
私たちの人生は、柳梅桃李なんていう風情のある状況ばかりだとは限らない。泣いたり、苦しんだり、茨だとか藪だとか、さまざまな困難がある。でも、そういうなかでも心の春をしっかりもっていなければならないということでしょう。
また、梅の木は、なんとなく修行をあらわしているようなところがあります。
枝は、こっちへ出てきたり、あっちへ出てきたりする。その徒長枝を、剪定しないとかたちにならない。それは、修行みたいなものじゃないですか。あっちへいこうとしては打たれ、こっちへいこうとしては切られ、と。
また、梅の木はぐねぐねしていますね。すんなりまっすぐ伸びている梅の木では喜ばれない。梅はいわば曲者なのです。ところがそれなのに、素直であったかい花を咲かせるところが素晴らしい。
年をとればとるほどいい、というのも梅の特徴です。
道元さんは「老梅樹」 老いた梅の樹に新しい華が咲くと表現しています。
年をとることで、人もそういう状態になっていくのです。禅は、年をとって余計なものがなくなっていく、落ちていくことをよしとします。
「閑古錐」という言葉があります。古い錐は、先が丸まって、役には立ちません。けれども、人を傷つけることもない。それは、偉大なことです。
年をとれば、どうしても体は枯れていきます。枯れてはいくのですが、咲く花は常に新しい。中ががらんどうになったような梅の古木に、ばーっと華が咲くじゃないですか。
道元さんは、梅の花が咲くということは、如来の眼睛(お釈迦さまの瞳)をもつことだとも言っています。
如来の眼睛をもてば、いたるところが梅華になる。いのちが咲き賑わっているのが見える。いたるところが梅華であり蓮華である。それはもう、いのちの輝きそのものなんですね。
それは「諸法実相」、というより、「諸法実相」がそこに咲いているということです。「何かに没頭した状態である『而今』の到処」に、諸法実相が現成しているんですね。 |
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「ダーナ」2008 winter 平成20年|冬号 |
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