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餓鬼は、餓鬼道に落ちた人を供養する、あるいは落ちるのを予防するという意味があります。
餓鬼というのは、物惜しみした人が落ちる場所です。どんなに食べても満たされないし、喉がかわいて水を飲もうとしても、それが火となって燃えてしまうという世界として描かれます。
日本では、死後、誰もが平等に仏になると思われています。亡くなった人が、地獄にいると想定して法要している宗派はひとつもない。お盆になると「地獄の釜のふたも開く」といわれますが、先祖が地獄から来るとは誰も思ってはいないんです。
ところが中国では、死ねば地獄・餓鬼・畜生の三悪道に必ず落ちる考えられていました。
なぜでしょうか。私たちには、慳貪(物惜しみと貪り)の心がある。それの罪で、誰もが三悪道に落ちると思っていたのです。それを救うために、施餓鬼供養があったのです。
私たちには、慳貪の気持ち、いわば自己愛というものが、無意識のものとしてある。そして自分に都合のいいものしか愛せない。自己愛の延長でしか世界を愛せないわけです。
たとえば、自分の子どもと他人の子どもは平等には愛せない。また主食のお米ができるためには、稲にとって邪魔になる草や虫、あるいは微生物などもたくさん排除されています。
ゴキブリとかハエとか蚊などは、人間にとって、不都合だというだけで殺されている。あるいは、牛や豚やニワトリなど、人間の都合で、食べられています。
本質的には、それぞれの<いのち>の価値は等しいでしょう。
ところが人間は自分たちの都合で、あらゆる生き物のいのちの価値を勝手に決めているわけです。
このように、人間というあり方がすでに慳貪で、そういう意味では餓鬼道に落ちるわけですよ。
けれども、あらゆるいのちを対等に愛するなんていうことは現実には無理です。
しかし同じいのちだし、対等に愛するべきじゃないかという考えがどこかにありますね。また、自分たちの都合によって奪ってしまったいのちに対して、申し訳ないという思いもあります。
だから、一年のうちで一日だけでも、あらゆるいのちに対して、お詫びをして愛情を注ぎましょう、というのが施餓鬼です。いわば人間中心主義を期間限定で反省しているんです。
人は誰でも自己愛をもっています。仏教では苦を生み出すシステムとして、「十二因縁」が説かれています。「十二因縁」は、「無明」から始まり、次が「行」です。「行」とは、自己愛によって自分に好都合なように無意識に心を構築しようとする力なんです。「行」のあとが「識」です。あらゆる認識とか記憶とか、もうすでに自己愛に染まっているということですよ。
自己愛というのは根深いものです。
何かを汚いと思う気持ちも自己愛からきているんですね。
「自己」というものがなければ、自己愛はありません。自他の隔てがなければ、世の中に汚いものなどない。もともと赤ちゃんの頃は、世の中に汚いものなんかなかったんですね。それは「私」がまだ出来上がっていないからです。
この「私」というものが、問題なんですね。「私」というものを、固定的にみてしまうところから、あらゆる苦しみが生じてきます。
けれども、実は「私」というものは、便宜上のものなんですね。その時その場で構築されるものなんです。
昨日の私と今の私は違います。物事に対するたびに違います。人と会うたびに違います。
固定的な私なんてないし、その場で出来上がってくるものなんです。
この「私」というものの枠組みを緩くしていくことが、よりよく生きる道です。
そのためには、「応じる」という生き方がいいんです。
観音さまは。「善応諸方所」といわれます。
「すべての状況によく応じる」という意味です。
応じる時に、自分のもっているほんとうの力が出るんです。
目標を立てて、決めたことを何が何でもやろうと思うのは、非常に不自然なことです。それよりむしろ、応じることで出てくる自分のほうが自然なんです。
その時に、どこまでこっちが白紙になれるか、です。
「困ったな」とか「不都合だな」と思うことでも、応じてみるということなんです。応じないで、固定的な「私」を握りしめていると、頑固に抵抗して、苦しむことになるわけです。
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「ダーナ」2007 summer 平成19年|夏号 |
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