竹
の葉が風を受けると、一枚一枚がさわさわと鳴って、とても清々しいですね。
 「清風脩竹(せいふうしゅうちく)を動かす」と言いますが、竹を通ってきた風は、ひときわ清風と感じられます。風が竹と出合うことによって、清らかになるんですね。
 竹は、どんな風が吹いてきても、しなやかに揺れています。抵抗することなく、むしろそれを喜んでいる風情があります。その「我を主張しない」ありようが、涼やかさをもたらします。
 私たち人間にとって、「涼しさ」「清らかさ」というのは、もっとも実現しにくい徳目です。
 なぜなら、それを目指した途端、もう実現されないからです。「涼しげであろう」と、目標を立ててがんばったら、そこに涼しさはありません。
 にもかかわらず、竹はそれをあっさりと実現してしまっています。ここに竹が賞賛される所以があります。
 何も目指さない生き方が涼しいんですね。それは、先のことを心配しない生き方でもあります。
 竹には、目指しているものなど、何もありません。自分のなかにすべてある、すべて具えているという確信がある。だから、今、ここを楽しんで、満ち足りているんです。
 また、竹は、どんな重さがきても抵抗しません。葉に雪が積もっても、しなやかにすっと雪を落としてしまいます。
 「柔弱(にゅうじゃく)」
 という言葉があります。
 柔らかくて弱いというのが、実は強いんですね。変に我を張らなければ折れることもありません。
 「柔弱」は老子の中心思想です。老子は乳児の柔弱さをたたえています。
 乳児は、手をギュッと握っても足には力が入らない。ところが、大人はギュッと握ったら、足どころか全身が硬くなってしまいます。
 竹のように、乳児のように、我を張らない、我慢しない生き方が素晴らしいんですね。
 我慢というのは、我を張ることでもあります。我慢は、仏教的には七慢(しちまん)の一つで、傲慢さの一種です。「私はどうあってもこうするぞ」という思いが、我慢のなかにあるわけです。
 竹の姿は、我慢とは対極にあります。状況に抵抗しない。むしろ、状況に身を任せてしまっているのです。
 大風が吹くときの竹の葉のようすを「竹笑う」と言います。
 身を投げ出して、自分を守ろうと抵抗しないから、どんな風がきても、かえって無事なんですね。笑っているように見える。
 私たちの人生は、いつなんどき逆風や突風に吹かれるかわかりません。
 しかし、私たちがそれを「逆風」と思うのは、「人生は常に順風でなければならない」と自分で決めているからです。
 私たちはいつも、物事を思いのままにコントロールしたいと思っています。
 「こう進もう」「こう生きよう」と決めています。それは、いわば目標のでっち上げです。
 そうして、目標とは逆の風、意図しない風が吹けば、それを逆風だと思ってしまいます。
 しかし、風は何も私たちを困らせようと思って吹いているわけじゃない。風というものは、いつも四方八方から吹く。しかも常に変化します。風は変わるのが本性です。
 だから、この人生、どんなところからも風は吹いてくるものだと思っていればいいんです。
 「こうじゃなきゃいけない」という思いを手放してしまえば、突風だって「竹笑う」と、とらえることができます玄侑宗久
 つまり、私たちは風向きの変化さまざまに起こる出来事に対して、常に柔軟に対処していけばいいのです。
 たとえば、僧侶は自分なりの予定や計画を綿密に立てていたって、亡くなられた方があればすぐに枕経に駆けつけます。そんなときに「こんな予定じゃなかった」と言っても何にもならないどころか、そんな気持ちではお通夜やお葬式に精魂を傾けられません。
 ですから、予定はあってないようなもので、その日その日に起こったことに真正面から対処していく、「その日暮らし」的生き方になります。
 「落花流水(らっかりゅうすい)」
 ということばがあります。
 水や花がどこに行きたいわけじゃない。水も花も流れにしたがっていく。
 それぞれがかかわりながら、流れに身をゆだねています。
 いつも変化に身を任せる柔弱さがあれば、そんなふうにしなやかに生きていくことができるんですね。
 

「ダーナ」2007 spring 平成19年|春号