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という言葉は、お釈迦さまの当時から二つの意味で使われています。一つは心の平安。煩悩の炎が吹き消された安らかな心の状態をいいます。もう一つは、詳しくいえば般涅槃(はつねはん)。お釈迦さまの死のことですね。
涅槃会はむろん後者の意味で、お釈迦さまが入滅された日ですね。いろんな説がありますが、日本では二月十五日に行なわれます。二月半ばはいちばん寒い季節で、また春が始まるという感じのときでもあります。それは、何かが死に絶えて、また新しく何かが始まるという意味合いじゃないでしょうか。
いわば、お釈迦さまの死を悲しむというよりも、死に絶えずに連綿と続いてきているものを祝福するというときでもあります。また、法と僧に、実在したお釈迦さまを祀ることで仏法僧の三宝が揃うことから、仏道が始まった日ともいえます。
お寺では、涅槃会の日に涅槃図(お釈迦さまが涅槃に入られたありさまを描いた掛軸)をかけ、報恩の法要を行ないます。
涅槃図では、お釈迦さまは頭を北に、顔を西に向け、右手を枕にされて寝ています。その周りには、多くの弟子、王族、老若男女、鳥獣たちまでもが集まって、お釈迦さまの入滅を悲しんでいます。
有情ばかりでなく、植物も悲しんでいます。沙羅双樹には時ならず白い花が咲き、次々と花びらが降りました。地震さえも起きました。それはまさに、無常なる愛別離苦のあらわれということです。またそれは、仏教の新たな展開のための偉大な節目ということができるわけです。
お釈迦さまが涅槃に入られる前に、スパドラという老人が、「弟子になりたい」といって来ます。従者のアーナンダは、三回断わりますが、お釈迦さまは面会を許します。そして、スパドラを最後の弟子として得度させ、教えを示してから入滅されました。
お釈迦さまは最後の最後まで、人々の悩みに耳を傾けて道を説き、大勢の弟子に囲まれて亡くなっていったわけです。それは人間として、ひとつの理想的な死に方ではないかと、私は思います。
涅槃会の意義は、お釈迦さまの遺言を思い出すことにあります。
お釈迦さまの遺言とは、「自灯明・法灯明」の教えです。
すなわち、まず頼りにすべきは「自分」である。その自分とは、「私」というものではありません。自然の分身という言葉の短縮形が自分ですが、自然のままに「よく調えられた自分」なのです。
「私」というものがすべての煩悩の根源なんです。だから、その「私」は、滅尽させなければならない。
「私」を芽生えさせる力をサンスカーラ(行)といいますが、そのサンスカーラを滅尽することが、修行の目的なんです。
サンスカーラを滅尽して、ほどかれた「私」が、「無我の状態になった自分」なのです。それこそが、「頼りとすべき自分」ということです。そのために、「瞑想しなさい」とお釈迦さまは説いています。瞑想によって、自分を調えるのです。それが、「自灯明」になるわけです。
それから、よく調えられた自分が感じとる世界が「法」です。
よく調えられた自分によって受けとられた世界、それを頼りにすることこそ「法灯明」になるわけです。法とは、我々が対象にするものすべてをいうのですが、対象というものは、自分の外側だけに存在するのではありません。
それは、私によって受け止められて初めて立ち上がる。いってみれば、脳のなかに立ち上がるわけです。
そうなると、受け止める側に「私」があったならば、私に染まったものしか現れない。だから、受け止める側を無我の状態にもっていく、受け止める自分を調えることが先なんですね。
瞑想によって、自分が調ってくる。その調った自分が感じとる世界を、すべて法として拠り所にしていいといっているわけです。
法とは、自己から独立してはいけないのです。それは常に自分によって感じとられるわけですから、感じとる自分 を調えない限りは、ろくな法が見えてこない。
お釈迦さまの遺言は、それに尽きるのです。そのために「瞑想しなさい」ということです。瞑想というものが難しければ、『般若心経』に説かれているように呪文を唱えるという方法もある。お題目も、お経もいわば呪文として唱えることは、意味とはまた別な功徳があります。
お題目を唱え、お経を読むことで、自分が調ってくるんです。
ただしそれは、丸暗記してしまわないといけません。如来寿量品でも般若心経でもいいですが、まずは暗記して唱えてみてください。それがお釈迦さまの遺言だと思って……。
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「ダーナ」2007 winter 平成19年|冬号 |
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