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 に新緑の香りをのせて吹く、南からの温かな風を薫風といいます。五月は風薫る季節といわれますが、薫風のそよぎは、まさにのどかさを誘います。
同じ風でも私たちの感じ方のよって違うものになってしまいます。北風や強風はありがたいと思われません。ですが、風そのものは悩んでもいないし、苦しんでもいない。とどこおりなく、矛盾もない、自然そのものです。
風はどんなところにも入っていって、あとかたも残さない。しかも、いい香りをともなったり、涼しさを運んだり、一瞬にして人の気持ちを変える力をもっています。
風ほど「自由自在」というものを端的に表現できるものもないでしょう。薫風こそ仏さまなんですね。
『碧巌録』にこういう公案があります。
「如何なるか是れ諸仏出身の処」
薫風自南来(くんぷうじなんらい) 殿閣生微涼(でんがくびりょうをしょうず)
老師に向かって弟子が、「仏さまとはどんな方なのですか」と訊いているわけです。つまり、仏さまを規定する条件とは何かということです。それに対して老師は「どんなもこんなもないよ」と、仏さまに関するあらゆる限定をはねつけます。
なぜなら、どういう状態ならば仏さまなのかと考えることは、そこに自分にとって都合のいい状態を求めてしまうことになるからです。
だから、この問い自体がおかしいんです。そこで、
「ほら、そよ風が本堂を吹き抜けて、なんとまあ気持ちいいではないか」
とつぶやいたわけです。
薫風によって、微かな涼しさが生まれている。この薫風こそが、仏さまじゃないかというんです。
仏さまというものはあらゆる限定を超えている。けれども、たまたまそのときは涼しい風となって現れた。
そして、薫風だけではない。どんな風のなかにも仏さまはいらっしゃるわけです。
道元禅師は、こう歌いました。
春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて冷しかりけり
雪に、「冷しかりけり」といって応じている、身をまかせているわけです。
薫風だけではなく、本当は寒風にも木枯らしにも熱風にも、仏さまはいらっしゃいます。しかしそれじゃあ難しすぎますよね。だからここでは、有り難さを感じやすい「涼しい風」が歌われたんです。
でもこの「涼やか」という境地は、とても難しいですよ。
涼やかであろうと目指したら、もう涼やかじゃないんです。目指したとたんに離れてしまう。
「こうありたい」というような希望や願いがなくなった状態こそが、涼やかなんです。
禅では「無事」といいますが、その意味は自分の外に何も求めることのなくなった状態です。何かを目指していないんです。
自然というものは、私たちに都合よく展開してくれるかどうかはわからない。
私一人だけの都合に合わせて自然現象が起こるわけじゃない。台風にやられることもあるし、地震で被害に遭うこともあるでしょう。
それが、はからいのない自然の営みですね。だから私たちは、それとうまく融け合っていくしかないんです。
私たちは、目標を次々に設定して、それが叶ったときにこそ幸せだと思っています。
けれども、願いなきこと これが、最高の幸せではないかと思います。
何か目標をもっていると、人は熱くなるんです。「ねばならない」ということが多いと、蒸し暑いし風とおしがよくない。
頭が何色かに染まっていると、ものがちゃんと見えてこない。目標に向かって燃えていると、極端に自分の都合によってものを見ているので、いい出会いのご縁をいただけないんです。
願いをもたず、いつもニュートラルな状態であれば、どんな出会いもちゃんと向き合うことができ、そこから何かが生まれていきます。
ある意味で「願い」というのは、頭で考える人為的な思惑なんですよ。
「願い」をもつと、「こうでなければいけない」と考えたものを抱えることにあるわけです。
そうするとさっと応じられない。自然現象がくれるいろんなチャンスを逸してしまう。
荷物を大切に抱え込んでいたとき、上から柿の実が落ちてきたとするじゃないですか。荷物を抱えているから、パッパッと掴めないし避けられない。ぼこぼこにぶつかってしまう。後生大事に抱えているものが、対応力をいちじるしく落としてしまうんですよね。
そもそも、自分の思惑なんてたいしたことはない。思惑どおりにしか物事が運ばないということほど、面白くないものはない。
人生は、思惑を超えたことが起こるから面白いんです。そこから、思わぬご縁がいただけるのです。
だから、風のほうに合わせればいい。「風まかせ」「のらりくらり」が素晴らしい。
そうすれば、思わぬ突風や逆風がやってきても、それもすべて薫風と受け取ることができるはずですよ。
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