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「節分」とは、節が分かれるところをいいます。陰と陽との節が分かれるところです。
節分は立春の前の日が一般的ですが、本来は、立春、立夏、立冬の前の日も節分なのです。
立春の前の日は、冬から春に移行する大きな節であり、人は春を待ち望んでいるので、とくに立春の前の日で「節分」を代表させています。
節分とは、いわば「晦日」のことです。「春になった」「夏になった」「冬になった」という元旦の前の晦日なのです。
一日にたとえると、夜明け直前です。すでに夜が終わりつつあり、朝の兆しがはじまるときです。
春の節分は、まだ大勢を占めている陰の気を追いやって、兆しつつある陽の気の勢いを応援する儀式なのです。
春の訪れをいち早く祝うことによって、春を招いているわけです。
私たちは掛け軸でも活け花でも、いまの季節に一歩、先んじたものを飾りますね。それらは「兆し」を愛でているのです。先んじて季節の兆しをとりあげることで、新しい季節の訪れを祝っているのです。
雪深いなかからフキノトウが現れ、寒風にさらされた梅の枝に小さな蕾が膨らんでゆく。人々は「それはめでたいことだ」と喜びます。「芽が出る」ことは、とても喜ばしい。「めでたい」の語源は、「芽が出てきたようだね」ということです。
私たちは、なんどもなんども春がきたと喜びます。正月のとき迎春と喜び、節分で春を喜ぶ。そして、実際の春がくればまた喜びます。春は三度もやってくるのです。
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節分のときに、大声で「福は内、鬼は外」と叫んで豆をまきます。福をうちに招き入れ、鬼を追い払っているわけですが、そもそも「鬼」とはなんでしょうか。
「鬼」とは、「邪気」と考えられます。春の場合は、陰の気ですね。
昔の人は、不幸の原因は邪気にあると考えていました。邪気に入られたり、内の気がよどんで滞ると、病気になると考えられていました。
だから、邪気を追い払い、また内気を動かそうとしました。邪気の嫌がる鰯の頭をぶら下げたり、ひいらぎを植えたりしたんです。あるいは桃の木の枝を玄関の前に置きます。桃の木は、とても邪気を祓(はら)う力が強いと信じられていたからです。
鬼が「邪気」を象徴するなら、桃は「無邪気」を象徴しています。
これはつまり、邪気に対しては、無邪気を差し向けるのがいちばんいいやり方だということです。
対抗しない、力で押さえつけない、やっつけようとしないわけです。そういうあり方だと、いつしか邪気が純化されて邪気として現れなくなってしまうわけです。
邪気に対して、悪と決めつけて同じ邪気の力で対抗すると、果てしない戦いになります。
このことを、私たちの体を通して考えてみましょう。
我々の中にある「邪気」と呼ばれるものは何かというと、たとえばガン細胞などがそうですね。西洋医学では、邪気に対しては邪気で対抗しようとするので、切除したり放射線や薬でやっつけようとします。
しかしよく考えてみれば、ガン細胞といっても、もともとは自分自身の一部なわけです。要は言うことを聞かなくなった細胞ですね。果してそれを抹殺していいものでしょうか。
邪気だって、うちに取り込んで融和することはできるわけです。渋柿は干しておけば、そのまま甘くなります。煩悩と菩提(悟り)の構成要素もじつは変わらない。同じ心が、菩提になったり煩悩になったりするんですね。
無邪気で向かうというのは、「邪気」を悪いものだと固定的にみないからです。いまここで、邪気として現れているだけのこと。仏教は、固定的な見方をせず、すべてのものを関係性のなかでみます。邪悪なものでも、それを固定的な存在としてみません。それは、たまたまいまの自分に対して悪として現れてきた流動的な「出来事」としてとらえるのです。 |
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いわば、邪気というものも「出来事」なんです。
たとえば自分の内臓のことを考えてみてください。最後に自分の膵臓(すいぞう)のことを考えたのはいつでしょうか、肝臓はどうですか。心臓は……。
それらの内臓は、休むことなく一所懸命働いているのに、社長からまったく顧みられない社員のようなものです。まったく一瞥(いちべつ)もされず評価も感謝もされないということになれば、やがて不平不満がたまり気がよどんできます。内気が滞って、病気という現象を引き起こすわけです。だから、社長が社員を温かく見守るように全身に温かいまなざしを向けることが必要なのです。見つめてあげるだけで気は動きだします。
瞑想によって、意識を呼吸とともに全身に振りむけてやると、細胞に気が流れます。すると、血流が流れ新鮮な酸素が届くのです。それによって、臓器が元気になるわけです。
邪気とか鬼というのは、いわば自分の中の異物なんですね。その自分の中の異物をも、否定しない、やっつけるのではなく、自分の一部として、温かく包み込んでしまう。結局はそれが、慈悲ということです。
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「ダーナ」2006 Winter 平成18年|冬号 |
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