特集  自らを輝かせる!

     何かと考えさせられることの多い現実に
「冴えない自分だなぁ」と感じることもしばしば。
そんな自分の中にある活力を引き出すには






 「ーヒーのことなら、おれにまかせておけ」という人もいれば、
 その人が部屋に入ってきただけで座がパッと明るくなる人もいるでしょう。
 自分の特徴を発揮できる可能性は、だれもが秘めているのです。「おれなんか役立たずだ」と考えるのは間違いです。
(庭野日敬『もう一人の自分』より)


目の前のいまのご縁に応じ、鮮やかに喜び、悲しみ、苦しむ
【サブタイトル】
私というものは一瞬一瞬、生まれ変わっている
すべてが連携しあい、無心に応じあっている
目の前の事態に、ひたすら応じて生きていく




「ダーナ」2005 summmer7/20発売



私というものは一瞬一瞬、生まれ変わっている

 私というものは、一瞬一瞬、生まれ変わっています。さっき食事をとっていた自分と、いまの自分とは、もはや違うのです。
 だから、「ほんとうの自分とは」ということを追求しても意味がありません。自分は、刻一刻と変化している存在だからです。
 それは「無相」ということです。
 無相とは、固定的な姿がない、必ずこうであるということがない、縁に応じていかようにも変化し、どうにでもなれるということです。
 『善応諸方所(ぜんのうしょほうじょ)』(もろもろのところに、よく応ずる)という言葉が『観音経』にあります。もろもろのところに応ずることで、新しい自分が、瞬間瞬間、引き出されてくるのです。
 そのように「自分はこうだ」というものを手放して、その場に応じて次々と出てくる自分を、楽しめばいいわけです。
 『法華経』には、さまざまな如来や菩薩が登場します。日月燈明仏だの多宝仏だの、上行菩薩や常不軽菩薩など。
 それらは、すべて久遠の釈迦仏の現れたものなのです。久遠の釈迦仏というのは「無相」です。さまざまな如来や菩薩は、無相である久遠の釈迦仏が、方便として身を現した姿なのです。「もろもろのところに、よく応じた」姿なのです。
 そして、久遠の釈迦仏とは、とりもなおさず自分自身のことであり、私というものの本質は「無相」なのです。
 無相の私が、この現実の世界にあって、縁に応じて瞬間瞬間、生まれ変わっている。毎瞬毎瞬、変化して、新しい自分を現しているのです。

すべてが連携しあい、無心に応じあっている

 「自分はダメだ。生きていてもしょうがない」などと思うのは、脳の働きです。大脳皮質の言語脳がそう思っているだけのことです。それ以外の臓器は、心臓だって肝臓だって腸だって、いのちを全うしようと一生懸命に働いているのです。一瞬たりとも休むことはありません。
 身体というものは、それぞれが連携しあい、全体の関連のなかで無心に応じあっています。ひとつの臓器だけが自己主張したら、うまく働きませんよね。
 たとえば口に何か食べ物が入ることに応じて、唾液が出て、胃袋では胃液が出て消化活動が始まり、腸も蠕動して消化するというように、互いに応じあっているのです。
 無心に応じあっているこの身体というのは、本来は疲れることはありません。
 心臓は働きづくめで疲れないし、肝臓も腎臓もすべてがそうです。「もう何十年も働いたから、疲れるはずだ。そろそろ休まないといけない」などということはなく、ただひたすら黙々と働いているのです。
 私たちが、「疲れた」とか「もう駄目だ」というのは、大脳皮質の働きです。それは、自分の思い込みです。概念であり、妄想といってもいいでしょう。
 「このへんで疲れておかないとまずいんじゃないか」という思いがあるから、疲れるのです。いわば「疲れたいから疲れる」ということができます。
 子どもは一日中遊びまわっていても疲れませんね。動きたいから動いて、寝たいから寝ています。それは、いのちが自然にそうやって発動しているのです。ところが大人になると「休まないと身がもたない」という思い込みが生まれるんです。
 「ああ疲れた、休まなくては」と思うと、疲れの要素が集まってきます。逆に、風呂に入って「ああ、一日の疲れがすっかり抜けたぞ」とつぶやくと、「そうだなあ」と体もそのように思うわけです。
 このように、自分のつくった妄想・概念というものが、自分をつくっているのです。

目の前の事態に、ひたすら応じて生きていく

 「こうだ」という、固定した自分というものはないと申しました。それは、思い込みであり妄想です。
 本来、無相の私が、瞬間瞬間に生まれ変わっているわけです。
 そして、「トータルとしての私」というものは、いつも輝いています。いま輝いているんです。
 この人生というものを、坂道を登るようにして生きている人がいます。そして、「いまはつらいけれども、頂上に辿りつくんだ、いまは輝いていないけれども、いつか私も変わるだろう」と思っています。
 でもほんとうのところ、その人は、決して坂道の途上にあるわけではないのです
 どんな状況であれ、「いま・ここ」がまさにピークなのです。
 どこに立っていても、そこが頂点なのです。
 「若いからまだわからない」といっても、年とったらボケてしまって余計にわからなくなったりもします。
 結局、すでにいまが完全なのです。
 トータルとしてのその人の人間力というものは、いつでもいま完璧なのです。
 いつまでも、いま、輝いているのです。
 そもそも「輝く」とは、どういうことでしょうか。
 それは目の前のいまの事態に、百パーセント応じて生きていくこと、瞬間瞬間、百パーセント、縁に応じていくことではないでしょうか。
 常にニュートラルな心を取り戻す習慣をつけ、目の前のことに応じていく。悩んでいるときには、百パーセント悩み、悲しいときには、百パーセント悲しめばいい。
 それが、「鮮やか」ということです。
 色彩というものは、他の色が混ざっていないとき鮮やかになります。
 だから、さっきまでの時間が、いまに流れ込んできたり、過去の思いがいまに混ざるとき、そこに鮮やかさはなくなってしまいます。目の前の相手に応じているときに、「実は悩みごとがあって」といった思いが流れ込めば、感情が濁ってしまうでしょう。
 大切なことは、鮮やかに喜び、鮮やかに悲しみ、鮮やかに苦しむということです。
 それが、自分を輝かせて生きることではないでしょうか。