特集:仏教をどう生かせるか?
合理性ではなく「縁起」で生きる
仏教がもつ全体性へのまなざし

明治以降の西洋化は、合理性という巨大な妖怪を生み出した。 すべては理解可能という過信。この西洋合理主義の考え方がもたらした息苦しさ。 そのこわばりをときほぐし、心を楽にする力をはらんでいるのが仏教だろう。 「縁起」という豊かな認識を持つ仏教について玄侑さんに聞いた。


仏教は全体性を見据える

 失敗でも事故でも、あるいは喧嘩でも、その原因は何なのかと考える場合、どうしても人は原因をひとつにしぼりこむ傾向があります。ところが仏教ではそう考えません。諸々のことは「縁起」という複雑な網目の中で起こったことなのだと認識するのです。
 たとえば悩みの種となっているモノやコト、そして対人関係も、無常であって、変化の中にある。つまり「空」であるという考え方なのです。それも全体性の中に物事をおいて見るからです。
 科学的方法論では、どうしても全体性というものが扱えません。科学の「科」という字自体、穀物を測る枡のことですが、枡の中の物を、枡の外の影響を度外視して丹念に調べるという方法論だからです。フーコーの振り子の実験でも、宇宙の中心部からの影響を私たちが受けているということがわかっているのに、そういうものをとりあえず無視して現代の科学は成り立っているのです。
 しかし仏教は全体性というものに常に配慮してきました。物事を考える枠組みを、ひとつの国から地球、あるいは宇宙というところまで広げた人がお釈迦さまです。もちろん科学という方法論ではありませんから、「縁起」とか「空」といった漠然とした言葉になるのですが、でも仏教が想定した物理的な宇宙は、現代の宇宙物理学よりも広いし、ミクロについても、ほぼ素粒子レベルまで考察しています。
 たとえば月の動きで潮の干満が起きていますが、そういう影響は実は地面でも起きている。ある観測によると、月が真上に来ると、地面は二十センチ上がるのだそうです。そして人間の体内の水も干満する。月と犯罪の関係や、病気の関係なども指摘されています。満潮のときに産まれる人が多いとか、干潮のときに亡くなる人が多いとか、女性の生理なども月と関係があるなど、月の影響はなんとも説明がつかないことが多くあるのです。
 つまり諸々のことは、自分の目で確認できる、あるいは気づいたことだけを原因だとして納得するだけではダメだよというのが「縁起」や「空」の思想なんです。
 全体性というものは、長い年月を要してできてくるものです。たとえば日本という国にも長い歴史によって築かれた全体性があったのですが、しかし明治以降こんにちまで、その全体性を無視して、和魂洋才と称したり、西洋の気に入ったところだけを持ち込んだりして、全体性の崩壊が進行したのです。そしていよいよ日本という全体性が完全に見失われた。そこで初めて日本とは何なのかということが追い求められ始めたのではないでしょうか。その全体性という考え方、視点、認識を提供するのが仏教なのだと思いますね。仏教が注目されているとしたら、そういう背景もあるのではないでしょうか。

しっかりと依存して

 キリスト教社会では、神の被造物である人間は不完全であって、いつ何をしでかすかわからない存在です。すでにアダムは知恵の実を食べてしまい、原罪をしょってしまったといいます。だから人間はコントロールし規制しなくてはいけないとなるのですね。そういう価値観を持った文化からいろんなものを取り込んでいる。監視カメラや学校の校門に立つガ−ドマンなども、そうした流れに乗ったものだと思います。
 仏教は、修羅も地獄も私の中にある、しかしその底に鏡のような心があると信じていて、仏性といわれる尊いものは、みんなにあると信じる立場です。西洋の人間観とまったく違う。性善説と性悪説くらい違うのです。欧米を真似れば真似るほど、性悪説に傾斜してしまって、もうごちゃごちゃになってしまった。
 明治以降、合理性というものが妖怪のように巨大化してしまいました。理解できないことはないという過信です。しかし非合理なことはあるのです。合理性の象徴は太陽だと思いますが、それに対して非合理の象徴は月です。仏性は非合理をも含んでいるということだと思うのです。理解できないけれど、たしかなことというものはたくさんある、それを仏教は認めますということだと思います。
 花のランはいちばん進化した植物だといわれています。ランの特徴は受粉を媒介する動物を特定してしまうことで、たとえばミツバチだけ、あるいはスズメバチだけ寄って来てもらえばいいと、特定の昆虫が好む香りを発散する。南米のあるランはダーウィンも非常に驚いたそうですが、まずハエを寄せ集めるのです。ハエがたくさん寄ってくるから次はクモが来る。そしてそのクモを捕らえようとハチドリが寄って来る。このハチドリが受粉を媒介するのです。こういった込み入ったことをし、他者への依存度をどんどん高めている花が、もっとも進化した植物だということはどういうことなのか? これが進化の方向だと認められるのか? 合理性にとって大きな壁になるのです。このラン、ハエ、クモ、ハチドリという関係の中にある「縁起」というものを見ずに、ハエを追っ払ってしまうと、とたんにランは枯れるのです。
 自立というのは幻想です。しっかりした依存というか、自信をもって依存していいのだということを、私はこのランの花から学びます。大人は子どもたちに自立しろ自立しろと言いますが、ちゃんと依存していいんだ、人は依存してしか生きていけないんだというべきなのではないかと思います。
 西洋合理主義の誤謬は、仏教を少し学べばわかってくるとは思いますね。それはいま、たいへん貴重なことだと思います。

「慈悲」は涼しさ

 私は、仏教によって生きることが楽になれると思っているのですが、そうではないと思う人たちもいます。仏教は「慈悲」という言葉で、全体性への偏らない愛情を想定しましたが、これは生きている人間にはおよそ不可能です。でも可能だと思う人もいる。そうした人たちは、私が思うに、仏教的な行をせずに、言葉を頼りにして生きている。
 「慈悲」という言葉に限りませんが、表現はつねに行き過ぎるものです。たとえば「慈悲深い人になりたい」と思った瞬間から人は苦しくなる。それは無志向性の愛情ですからね。しかし無志向性の愛情なんて無理ですよ。
 詩人の金子みすゞも「鈴と、小鳥と、それから私、みんなちがって、みんないい」と言っているうちはよかったのですが、「みんながすきになりたいな」というところまでいってしまった。しかも「みんなが好きになりたいな」と言っておきながらダンナは好きになれない(笑い)。
 「慈悲」という言葉は仏教以前からある言葉ですが、仏教に取り入れられたときに仏や菩薩のありかたとして提唱されます。当初の菩薩はよほど立派な方であって、私たちが到達できるものではなかったのです。
 ところが大乗仏教が盛んになってくると、誰でも菩薩になれると思ってしまう。だから「慈悲」というものも誰もが持てるだろうと思ってしまったわけです。これは苦しいですよ。みんなを好きになんかなれるはずはない。無理だとわかってめざしているなら美しいし、それでいいと思いますが、無理だと思わずに大真面目に追求するとつらいでけです。宮沢賢治などもそういう人だったのではないでしょうか。
 「慈悲」は「自利利他」ならいいと思います。自分を律して穏やかになった人が、ほかの人をも穏やかにする気を放散して、みんなが涼しく、いい気持ちになる。これならいいのですが、自分が救われないのに人は救える、わが身を捧げることによって人を救えるというところまでいってしまう場合がある。あまり言う人はいませんが、私はそこまでいくと、それは仏教なのかという気さえするのです。
 泳げないのに溺れている人を助けにいくようなものです。泳ぐ力がよほど優れていないと、溺れかかっている人を助けるということは無理です。そこまでのことを望んでしまうとおかしくなるんですね。
 禅などでは、仏性あるいは仏さまは涼しさにたとえられる。涼しさは貴重なもので、頑張っても涼しくはならないものです。その人が隣に来ると涼しい――「慈悲」はそういうものでいいと思うんですよ。逆に熱くなるのは簡単です。何かをめざせば、人はみな熱くなるのですから。
 仏道の修行をやる、また出家までするという人は「慈悲」という言葉に振り回されないですね。ところが言葉にのみ頼る人たちは「慈悲」という自縛につかまってしまい、早死にする人までいる。
 言語なんて不完全なものの代表です全体性に対しては歯がたたない。そしてそれは常に行き過ぎてしまうのです。橘以南(良寛さんの父)と一茶が「慈悲」をテーマに俳句を詠み合ったとき、一茶は「やれうつな蝿が手をする足をする」と詠んだ。このへんでとめておくのがいいのです。ところが以南は一茶の句のあとで「そこ踏むな夕べ蛍のいたあたり」と詠む。俳句としては「そこ踏むな」のほうがぜったい上です、慈悲深いもの(笑い)。しかしそう考えたら一歩たりとも外出できないし、どこも踏めなくなってしまう。そういう自縛力を「慈悲」は持っているのです。
 表現の行き過ぎをお経からも読み取らなくてはいけないと思います。すごい言葉だと鵜呑みにして、実現しようと思うと、ちょっと苦しくなることがあるのです。 

真面目さは危険?

 正義に対する懐疑心、そういうものも仏教は与えてくれると思います。正義はすぐに邪気をはらみます。ある種の思い込みですから。思い込んだ気はよどみます。よどんだものは邪気になる。邪気はほぐさないといけないのですが、邪気には邪気で対抗するという一神教の考え方は無効だということが最近ありありとわかってきています。邪気をほぐすのは対極にある無邪気なんです。それは東洋の方法論ですね。
 「瞋挙も笑面は打せず」。怒った拳も笑った顔は打てないといいますが、怒った人に対して最大の武器は笑いです。
 ところが笑いというものが、実は仏教でもあまり重視されていないというところが気になります。仏教が時代を生き延びていくために、儒教的な考え方と折り合っていく必要がありましたから真面目ということが尊ばれたのでしょう。本来、「柳は緑 花は紅 真面目」(『東坡禅喜集』)といって、柳は柳、桃は桃らしさを発散していればいい、ありのままの姿でお互いおもしろいなと笑い合っていたはずなんです。「しんめんもく(ありのままの姿)」という言葉が「まじめ」と読みかえられてしまったのです。「幼子もしだいしだいに智慧づきて仏に遠くなるぞ悲しき」という古歌もありますが、幼子は無邪気の象徴、笑っていたわけで、そこに戻りたいという歌なんですね。
 真面目さというのはお釈迦さまの「縁起」の思想にも反すると思うのです。網の目になった縁は次々に変化し、何が起こるかわからないものなのです。しかし真面目さは何が起こっても自分が決めたことを追求するというスタイルです。ということは縁起を切り捨てていくことになりる。
 たとえば一度も約束を破ったことがない人。これほど信用できないヤツはいない(笑い)。目の前で人が車に轢かれても自分の約束のために置き去りにするヤツですよ。でも合理性や効率を追求するから、そういう方向が賛美されてしまう。
 「縁起」というと、人は「縁起がいい、悪い」でしか理解しないですね。「縁起がよくない」とか言って、原因をひとつにしぼる単因論を押しつける人たちがいますが、一部の危険な宗教の特徴はそこにあります。「縁起」は、理由は無数にあってわかりませんという考え方ですが、無数にあってわからないということに耐えられないんですね。不安になってしまう。だからどれかに特定してもらいたい。特定してくれる人は拝み屋さんであったり新興宗教であったり、そこで何かを買ったりすることで「縁起がよくなる」と思ってしまう。
 仏教は宿命論ではありません。時々刻々と変化する自分を含めた「縁起」のありかたは常に変わっていくのです。自分の変化を度外視して、真面目に目標に拘泥する傾向が強すぎます。そして思惑通りにならないと落胆し、自分はダメだ、何かがおかしいと思い込んでしまう。これも合理性という妖怪のなせるわざなのです。
 若い人から「自分をコントロールできない」という悩みが届いたりしますが、コントロールしたいという欲求はどこまでいっても無駄に終わります。自分は自然の中の一部分、ネイチャーなんです。コントロールなどできるはずがない。それが大前提です。
 思いがけないことが起こる――これが楽しいんだと思えるようになってほしいですね。

構成/石井靖彦

「望星」2005年8月号