このところ、私のもとに、スピリチュアル・カウンセラー江原啓之氏について話して欲しいという依頼が相次いでいる。本人と対談してスピリチュアルブームについて話し合って欲しいというものもあれば、仏教者の立場から彼を批判してほしいというものまで様々だ。あたかもあなたは江原啓之を認めるのか認めないのか、敵か味方かはっきりしろ、と踏み絵を迫られているかのごとくである。
 それもこれも、江原氏がテレビ、雑誌、本で大きなブームを巻き起こしていることであることの証左だろう。江原氏はなぜウケるのか、現代の日本人はなぜ江原氏を求めるのか、私なりに考えてみたい。
 まずはじめに、私は俗に「霊能者」と呼ばれる「見える」人たちがいることを否定はしないと、お断りしておく。僧侶という立場上、科学的に説明のつかない様々な現象に立ち会う機会はある。拝み屋さんなどと呼ばれる霊能者と関わりができることもある。私の芥川賞受賞作・「中陰の花」に登場する拝み屋のウメさんのモデルになった人は、失くした財布のあり場所を、「押入れの引き出しの何段目にある」とまで言い当てる人だった。そういう不思議な能力を持つ人はいるのである。
 江原氏の本を読むと、江原氏が幼い頃からいろんなものが「見え」て、そのために苦労をしてきたことが書いてある。おそらくそれは本当なのだろうと思う。実際には見えてもいないのに、あたかも能力があるようにふるまうインチキ霊能者だろうとは思わない。
 霊能者には、自分だけに「見え」たものを瞬時に翻訳して、他人に説明する能力が必要だ。瞬時であるだけに、この翻訳作業に自覚的でない霊能者が多く、それが困りものだと思う。しかし実際、その翻訳力がないと、見えたものに苦しむことになる。江原氏は、これまで霊能者としてマスコミに登場した人たちの中でも、この翻訳能力に優れていることも確かだ。翻訳の仕方はその人が生活し、学んだ文化の影響をうける。たとえば故・宜保愛子さんだったら、江原氏よりも純日本的な翻訳の仕方だったと記憶する。それに対して、江原氏の翻訳のソフトは、後で詳しく述べるように、イギリス心霊学の知識をベースに作られたもので、これまでの日本の霊能者が持っていたイメージよりも、モダンでソフトである。
 カタカナの「スピリチュアル」という言葉を使うことによって、オウム真理教などの新興宗教の暗い記憶を遠ざけ、軽いイメージを出すことにも成功している。江原氏はあくまでも自分はカウンセラーであると位置づけ、大勢の前で一人の人をカウンセリングする、というパフォ−マンスを活動の中心にしている。宗教の側には注意深く入ってこないのも賢明だろう。ついでに付け加えれば、江原氏の包容力のある容貌も人気の一つだろう。
 イギリス心霊学を元にしたものでは三十年ほど前に流行した、つのだじろう氏のマンガ「うしろの百太郎」や「恐怖新聞」もある。しかし当時はそれほど定着しなかった。この三十年間で日本人の間にそれを受け容れる何かが準備されたのだろう。聞くところによると、江原ファンの最大の支持層は三十代の女性という。これもなにやら示唆的な話ではある。
 じっさい、カウンセリングという観点からみると、江原氏は僧侶である私が舌を巻くような優秀なカウンセラーだと思う。テレビの「オーラの泉」など見ると、江原氏はゲストのタレントや有名人に向かって、「あなたの前世はアルゼンチンの女性」とか「霊界にいる指揮者のトスカニーニがあなたを見守っている」などと断言し、言われた方は、驚きつつも感激する。 
 江原氏を批判する人たちは、「前世」や「守護霊」という言葉を断定的に使う江原氏に胡散臭さを感じたり、反発を感じるのだろう。確かに後述するように私にもいくつか気になる点はあるが、カウンセリングとしてはじつに上手い。「なんだか私たちと同じことをやっれいるな」と思うのである。
 悩みを持った人に対して使う言葉というものは、普段の理性的な言葉とは違う。我々僧侶のもとにも、様々なことで悩んでいる人が訪れることがあるが、そのときに使う言葉は、たとえば今「文藝春秋」の読者に向かって使っている言葉に比べれば、かなり断定的な口調も方便として使う。
 たとえば夫を亡くして嘆いている妻には、「旦那さんは、いまごろ阿弥陀さまのところに行っていますよ」と言うことだってある。阿弥陀さまが本当に実在するかはともかく、自信を持って断言することで、妻も救いを見出しやすくなる。
 江原氏の人生相談の本を読むと、「夫が病気がちで、仕事もせず、子どもの面倒も見てくれない」という相談者の女性に対して、霊視した江原氏は、「旦那さんが赤ちゃんをあやしているところが見えます」という。貴方に対しては、亭主関白を装っているご主人も、貴方が見ていないところでは子どもを気遣っているし、自分の病気を気にして、切ない気持ちでいる旦那さんを分かってあげてください、と回答するのである。これなどを読むと、霊視が万が一フィクションだとしても、なかなかのフィクションではないか。
 悩み、救いを求めている人に対しては、物事をなるべく単純化し、シンプルな解決の方法を指し示してあげることも時には必要になる。人は、正しいことを聞いたから救われるのではない。「ああいう考え方もあるが、こういう考え方もある」という言い方は、知的に聞こえるかもしれないが、場合によっては有効ではない。特にカウンセリングという場では、「前世」や「守護霊」のシンプルな説明が、シンプルさゆえに安心に繋がることもあるだろうと思う。
 江原氏の言説を同じくテレビや本で人気者の占い師の細木数子さんと比べてみると、同じカウンセリング・パフォ−マンスを売り物にして、力強く断言するという点は共通している。細木さんの場合は「あなた死ぬわよ」とか「本当にダメね」とか、相談者を叱りつけ、そのパフォーマンスを視聴者が喜んで見ている。ただし細木さんは占いの根拠を言わない。細木さんはきわめて伝統的な日本の家族観の持ち主で、特に女性は家庭を守るべきだ、という考えが根底にあるようだ。江原氏の場合は彼がイギリス心霊学から学んだ「霊的真理」が、カウンセリングの根拠になっている。占いにプラスアルファがあるところが江原人気の理由の一つだろうか。また最終的な決断は本人にまかせ、いずれにしても覚悟が大事だという物言いも、カウンセリングの王道だと思う。
 カウンセリングという本来は密室で一対一で行なっていたことを、テレビや雑誌で大勢の前でパフォーマンスとして見せることで、江原人気はブレークした。
 それにしても江原氏のカウンセリング・パフォ−マンスがこれほど広く人気を博すということは、現代の日本人は、それだけ悩み、疲れ、多くの人がカウンセリングされたがっているということなのだろうか?
 江原氏のプロフィ−ルによると、幼い頃から「見える」ことに苦しんだ氏は、修験道の修行をしたり、神道の勉強をして神主として神社に奉職した時期もある。しかし現在の彼のペースにあるのは、留学して学んだイギリス心霊学だと思われる。
 イギリスというと、国教会に代表されるようにキリスト教国と思われているが、実は霊の国でもある。ケルト族の伝統の色濃いイギリスには、魂は循環するもので、人の魂は「あの世」からこの世に来て、死ぬと「あの世」に戻り、また生まれ変わって「この世」に誕生するという循環型の思想が昔からある。これはキリスト教が、天国と地上と地獄という直線的な思考しか持たず、人間は最後の審判の日に天国か地獄に振り分けられると考えるのと対照的である。ある調査では、配偶者を失ったイギリス人のうち、十四人もの人が一年以内に配偶者の霊を見た、という報告もあるほどだ。
 江原氏によると、人間は「人生の地図」を持つことが大切で、そのためにはスピリツアルについての「八つの法則」を理解しましょうと著書にもある。これはご本人も言うように、イギリス心霊学の七大綱領を江原氏なりにアレンジしたもののようだ。この法則は、西洋的な文化の中に育まれた思想なので、神道や仏教とは考え方の異なる点もあるが、大いに頷けるものもある。
 たとえば第一番目の法則である「霊魂の法則」。要するに、我々が霊的な存在であって、魂は肉体が滅びようとも永遠だという。この霊肉二元論がすべての前提になっている。
 そしてここからがイギリス心霊学独特の解釈なのだが、「魂には個性があって、個性は永続する」とされる。いま生きている自分には、もともと具わった魂の傾向があって、それが永遠に続くというのである。
 仏教ではこのような「個性が永続する」という考え方はしない。人の魂は、四十九日たてば木っ端微塵になる。つまり中陰を経て全体性に溶け込む。
 しかし死んだら魂は雲散するという仏教の考え方より、現在の自分の個性が来世に続くと思った方が、現在の人生を充実させやすいという面は否定できない。だから、カウンセリングには向いている、とは思う。
 また、魂には低級の魂もあれば高級の魂もあり、すべての魂は成長を目指すべきだという「階層の法則」は、進歩を信じる西洋らしい考え方だと思う。
 三番目の「波長の法則」は、自分が高い波長で活動していると、そういう人たちが寄ってきて応援してくれると説く。これは霊の世界に限らない。仏教では、そういう原理を「縁起」と呼んでいる。
 四番目の「守護の法則」というのは、誰もが守護霊に守られているというもの。守護霊の願いというのは、ただ一つ、我々の魂の成長だという。守護霊にもいくつかの種類があるそうだが、指導霊というのがあり、江原氏の場合はそれが戦国時代の昌清之命(まさきよのみこと)という人物だそうである。なぜそう特定できるのかというと、すべての魂は個性を持っているからである。この守護霊は、我々が試練にさらされているとき、魂の成長のためだと思えばじっと見守っている。しかし究極のピンチのときには救ってくれる、という。じつは我々が仏さまのことを想うときにも、普段は人間のやることに手出しはせずに見守ってくれているが、ギリギリのときには守ってくれる、と思っているのではないだろうか。実際私もそんなふうに話すこともある。
 他にいくつか法則があって、それらを守って魂を高めていくと、最後は神である大霊と一つになれる、それが究極の霊的幸福であり、すべての人は霊的幸福を目指して正しく生きるべきだというのが、八つ目の「幸福の法則」だ。
 これら八つの法則を理解して「人生の地図」を手にすることが、幸福な人生につながると江原氏は説くのである。これはこれで、イギリス心霊学流による、世界と人間についてのすっきりした把握の仕方だと思う。ただし気になるのは、江原氏の論の中に「霊的真理」という言葉が頻出することで、江原氏が文化的な修辞法の一つとしてではなく、「ただ一つの真理」としてこれらの法則を主張しているように思われることである。
 江原氏は、霊を実在のものとして信じているためか、時にどうしても滑稽としかいいようのない説明も目にする。たとえば、霊は国によって性格が違って、イギリスの場合は個人主義的で、簡単に人に取り憑いたりはしないそうである。日本人は他人に縋りやすい体質なので、日本の霊も人に憑依しやすいらしい。また最近になって、日本には多かったがイギリスではもともと少なかった自然霊を、よく見かけるようになったという。なぜかというと飛行機に乗ってイギリスに出かけた日本人に取り憑いていたらしい。ウーン、ここまで来ると、ちょっと笑ってしまう。私は霊といのは、長年その国の人たちが文化として蓄積してきた意識が、外界と出会うことによって「出来事」として発現するものだと考えている。はたして飛行機で移動もする「客観的実在」だろうか……。
 イギリス心霊学のはじまりになったのは、一八四八年のラップ音にまつわるアメリカの事件だった。家の中などで、原因不明の「ピシッ」というような音がすることがある。二人の姉妹が家の中でそのラップ音を使って、霊と交信をした。それをめぐって、小説家のコナン・ドイルなども加わり、霊は実在すると主張する派と否定派が侃侃諤諤の議論を繰り広げイギリス心霊学は発展してきた。
 精神分析家のユングは、ラップ音を説明するため霊魂の代わりに「集合的無意識」というものを想定した。ラップ音とは、「集合的無意識の中のエネルギーが外在化した」ものだという言い方をしている。霊という言葉を使わずに集合的無意識に溜まった鬱屈したエネルギが外在化したという解釈、これがギリギリ学問的な言い方だろう。
 ラップ音のような現象は世界中で起こる。これをどう説明するかということで、様々なレトリックが発達してきた。江原氏の「八つの法則」はシンプルな説明である。今の人たちがシンプルさを好み、単純なほどありがたいという気持ちから江原氏を支持するのは理解できる。ただ、あくまでも、これは文化の一つだという余裕が大切だと思う。それを飛びこえて、テレビや本で、「これが霊的真理だ」といわれると、「ちょっと待って、それは真理ではなくて、文化の一つでしょう」と言いたくもなるのである。
 私は、カウンセリングをしているわけではないが、お寺にはいろんな相談に来る人がいる。
 昨年、何度も私の寺に相談に来た家族がある。五十歳代の女性とその家族だった。夕食後のきまった時刻になると、その女性の人が変わるという。どうも、別の女が取り憑いて声も変わるというのだ。よくよく聞いてみると、それは女性の夫の祖母らしい。そして「自分の墓が傾いているから直して欲しい」と訴えているそうだ。
 こういうときに、「そんなはずはない」と言ってみてもしようがないのである。私は「では、お祖母さんの言うとおり、お墓を直してみたら」と答えた、すると祖母は出なくなったという。
 しかし一か月後、再び彼らが来た。今度は女性が、夕食後、五歳の子どもに変わるという。急に男の子の声になって「僕ね」などと言い出すそうだ。親戚の内に五歳で亡くなった子がいたのかどうかも分らなかったが、「どうして僕には位牌がないの?」と訴える。そこで位牌を作って持たせたが、それだけではなかなか出てこないので、寺で「魂入れ」という儀式をやったら、間もなく出なくなった。
 ところがしばらくするとまた彼らが来た。誰かが取り憑いているのだが、今度は誰だか分らない、という。私は仕方なく彼らの家まで行った。そこは何百年も変わっていないのではないかと思われるような古い地形の集落で、長いこと開発の手が入っていない場所だった。家のすぐそばには墓地もあった。墓地から何かがちょくちょく遊びに来て、女性に憑依して遊んでいるのかな、と思って、「施餓鬼」というお祓いをした。そうしたら、その晩から女性が取り憑かれることはなくなったという。
 私には江原氏のような能力がないから、その女性の背後に何かが見えたわけではない。位牌を作ったり、施餓鬼をしたことで、何がどうなって女性がもとの自分をとり戻したのか、私には説明できない。
 たとえば統合失調症の人が抱く妄想は、この女性の状態とかなり似ている。精神科医なら、私の体験を医学的なことばを使って説明するかもしれない。しかし実際の治療効果という面では、理屈で説明はできないがないがしかの儀式が有効なこともある。
 また江原氏だったら、女性の背後に何かをみて、霊が憑依しているというかもしれない。同じ現象を表現する方法はある種の科学者も霊能者も宗教者も持っている。しかしそのうちどれか一つだけが正しいという立場は私はとらない。「わからないけれども、こうなりました」というところで、いいではないか。無理に合理的な説明をしようとせず、そのまま供養という儀式をしているのが、宗教者の立場である。
 宗教には「わからなさ」が必要だと思う。「人が死んだらどうなるの」と訊かれたら、私たちは「わからない」と答える。「わからないけれど」で出発すると、膨らむものがいっぱいある。先ほどの八つの法則のように、様々な現象に名前をつけて、説明しようとする態度は、科学と共通する西洋由来の考え方の特徴だ。江原氏の言葉は今後いまより進化するだろうという予感を持っているが、現在のところ、生硬さがみられるのも確かだ。
 江原氏のことがこれほどもてはやされるのは、現代の日本人が「個性」というものに疲れ切っているということに大きな原因があると思う。
 学校でも「個性を大切に」と教え込まれ、「個性を持たなくては」という強迫観念を植え付けられ、「自分探し」をしなくてはならないのが現代の日本人だ。私は地元の教育委員を務めていた時期があるが、小学校の卒業式で、子どもたちに「将来自分が何になるか」を発表させるのを見て、なんて酷なことをするのだろう、と思ったことがある。「わたしはこういう人だ」というラベリングを、小さいときから求められる。
 「個性」とは妙な言葉だ。学校で「個性を大事にしよう」というとき、それはたとえば明るいとか、協調性があるとか、我慢強いとか、子どもの「誉められるべき部分」を指しているのは明らかだ。
 乱暴だとか、怠け者だとか、嫉妬深いなどネガティブな部分は個性と呼ばず、大事にすべきとはされない。
 実際にはひとりの人の中には、誉められる部分以上に誉められない部分がたくさんある。そこまで含めて一つの人格であり、個性であるはずだ。
 ところが現代の個性重視の風潮の中では、誉められない部分は裏側に回り、抑圧された状態でこもる。そういう自分がいることは誰もが潜在意識の中では気づいている。
 そして自分の中の抑圧された部分が時に表に出てきて、暴れだし、身体の不調や様々な心の病いのような形で現れてくることがある。個性重視の教育を受けた今の三十代以下の人たちは、そうした悩みを抱えているかもしれない。
 そのとき、江原氏が「悩むことはありません。あなたの魂には前世から決まっているこういう個性がありますよ」と優しく語りかける。迷い悩んでいる人にとっては救いの神であろう。
 なにしろ江原氏は、「芸術家」とか「侍」とか「僧侶」とか前世や守護霊の言葉を使って私の個性を「一つ」に決めてくれるのだ。もう自分探しに悩むことはないのである。そして、その個性は前世からの「宿命」だけれども、宿命を受け容れて魂の成長のために努力すれば、自分の「運命」を切り開くことができる、という江原氏の言葉は、現代の「個性疲れ」した日本人の胸に、優しく入り込んでくることだろう。
 ただ注意しなくてはならないのは、江原氏の理屈自体に、誉められる部分と誉められない部分を切り離す「個性教育」と似たものを感じることだ。守護霊に守られた高い部分が本当の自分で、自分の中の弱い部分は、低いレベルの魂として切り離す。このあたりが西洋的発想だなあ、と思う。こうした西洋的発想によって、個性疲れが癒されるように感じるところに、現代人の「西洋化」という病があるのかもしれない。
 私としては、低い霊として自分から切り離しているものも、おそらく自分の個性の一部であり、誉められない部分も含めてすべてが自分だと受け容れる方が、自分というものは豊かになるんじゃないかと考えるのだ。
 仏教では、この辺のことを説明する「方便」が発達している。自分の中にある「個性」という言葉では収まらない多様な命の可能性を仏像という形でシンボライズしている。仏教では人間の個性は一つではないのである。
 たとえば観音さまには三十三の顔があって、身を三十三通りに変化させる。その顔にはポジティブな顔もネガティブな顔もある。これは、相手に応じて臨機応変に変われる私というものをシンボライズしているのだろう。
 また薬師如来は、自分の命を正しく働かせることによって、人をも健康にすることができるという力のシンボルだし、阿弥陀如来は、人間が最大限に能力を発揮し、光り輝いている状態を表現したものだと思う。
 仏像は人間の持っている様々な能力を体現したもので、仏像の持っている力は、本来すべて一人の人間の中に納まるものだ。誰もが、阿弥陀さまや観音さまの実在を信じているわけではない。つまりそれらの存在はフィクションであることを知りながら、文化としてつきあい、時には信仰さえしているのである。
 そういう意味では、日本の妖怪も同じだろう。自分の中のどうしたってやりたくない、という気持ちを「ひだる神が憑いちゃった」と言い表したり、手のつけられない興奮状態になるのを、狐が憑いた、などと表現した。それらは、昔の日本人たちが考え出した、洗練された文化的なレトリックだった。不思議な現象を無理に分析しようとせず、そのまま妖怪の名前をつけて放っておくというのは、大いなる知恵といっていいだろう。
 私の仏教の考え方が正しくてイギリス心霊学が間違っていると主張しているのではない。江原氏にもそれを受け取る側にも、これはイギリスの土壌に培われた文化的な一つの解釈の仕方なんだ、という余裕が感じられれば、もっと抵抗なく頷けるだろうと思うのである。現在は江原ブームを支持する側も批判する側も、あまりにも「正しさ」にこだわりすぎているように見える。これは、現在日本社会の余裕のなさとも関係することなのかもしれない。
 先日、ラオスを旅してきた。そこでは一つの村の中に精神病の患者が出ると、隣近所に協力してもらって、生贄のために牛を屠(ほふ)る。そのとき、誰が牛のどの部位を押さえるか、刃物は誰が入れるか、細かく決まっている。そういう近所じゅうが参加した行事というか儀式の中で、精神病が治ってしまうということがあるという。合理的に説明しろというのは難しい。けれどもこれを生み出した知恵というのは素晴らしいと思うのだ。関係性の病は関係性の変化の中で治すということだろう。
 だいたい、魂が一つしかないということ自体、西洋的な見方にすぎない。ユングもその見方はむしろ世界の少数派だと書いている。沖縄では一人の人間に魂は六つ、ラオスに行けばなんと魂は三十二あるという。なぜ三十二なのかは皆目分からないが、それほどあると、なんだか「ゆとり」を感じてしまう。
 以前、沖縄でユタの人に見てもらったとき、「あらっ、あなた(魂を)一つ落としているわ」と言われた。そして「高い木から落ちたことがなかったか」と訊かれた。そういえば、私は京都の禅の専門道場での修業時代に、栗の木の枝おろしをやっている最中に、七メートルほど落ちたことがあった。「落ちました」と答えると、「じゃ、住所を書いて」。私が書いた住所の紙にユタは手を当て「ここよ、ここに魂がある」と言う。呼び戻す儀式をしてもらうと、本当に海の向こうから何かが飛んでくる感じがした。その後、痛かった腰が治ったり、確かに体調が良くなった。この体験を科学的に説明しようとすれば、精神的な暗示とかなにかあるのだろうが、それよりも素直に魂が戻ったと考えた方が楽しい。
 要するに、土地土地によって、魂のことを語るレトリックがあり、その土地ではその土地に根ざした心理があるのだろう。真理は一つではないと思いたい。
 現代の日本人は、「真理は一つだ」という言葉にあまりにも弱い。
 真理は一つ、個性は一つ、魂は一つ。商売の仕方ですら一つに統一しようというグローバライゼーションが進行中だ。なんでも一つのものに収斂させたいと、現代人は考えがちだ。
 だが、ことによると、魂は六個かもしれないし、三十二個かもしれないのだ。そう考えた方が人生は豊かになるのではないか。宗教者としては、その豊かさの方を尊びたい。

「文藝春秋」2007年5月号