10月11日


 秋の夜長は、まずは読書でしょ!といきたいところですが、今年は針仕事をしながら11月から韓国同時配信のドラマ「昼に昇る月」を観てます。人気ウエッブ漫画が原作の切ないラブストーリーだそうです。主演のキム・ヨンデさんのファンで主演ということもあり観てますが、アクションあり、ラブロマンスあり、ホロリとすることもあったりで今後の二人の展開に注目しております。U-NEXTが配信しておりますのでよろしかったら観てください。
 「三春の風」の中で、本音が言えないという相談に答えていらっしゃいましたが、腹を割って話せるようになるにはお互いの努力が必要だと思います。出逢いはふとしたご縁だったのかもしれませんが、お互いの理解を理解し、また同時にそれぞれが大事な存在であると気づいた時に真の人間としての関係にんsるのではないでしょうか。自分の一生で本音で話せる人に何人出逢えるのでしょか。私は本音話せる相手はこれからも大切にしていきたいと思っています。


9月4日

 9月3日から、ちょっと早起きをしてお経を唱えることにしました。般若心経、消災呪、大悲呪、白隠禅師坐禅和讃の順で唱えます。9月のお彼岸までにはと思っていますが、いざやってみるとなかなか思うようにはいかないものです。
 三日坊主にならずに、何とかものにしたいと願っておりますが、、、。最終目標はお坊さんになることではなく自分自身の心を調えること。目に見えて効果が出るとは思いませんが、何かはあるのではと信じてやっております。
 京都お和尚さんによると今はお坊さんになる人が少ないのでいつでも修行にいらっしゃいとお誘いはいただいておりますが、はたしてどうなることやら。私も正直先のことは謎のままです。


5月29日

 今、気になっている言葉が「こう雲托月(こううんたくげつ)」です。偶々見たドラマの最終回での台詞に使われてました。日本ではあまり使われていないようですが、中日辞典によると「周囲を雲でぼかし、月をはっきりさせる。まわりとの対照をはっきりることによってそのものをいっそう際立たせる」らしいのです。ドラマの展開から考えると王様の為に陰ながら支えていくというように感じました。人はいろいろな人の支えがあって生きているようにも思いますし、紡がれた人とのご縁によって困難な日々も救われていくのではないでしょうか。何事にも感謝の気持ちを忘れずにいたいものです。私も陰ながら支える存在になりたいものです。私の性格から陰ながらというのは無理かもしれません。奥ゆかしさに欠けるゆえに直接宣言しちゃう方でしょうか。ちなみに私が見たドラマのタイトルは「雲が描いた月明かり」です。2016年放送の連続ドラマです。
※こうの漢字は火に共です


4月1日

 3月31日に八重洲ブックセンターが四十四年の歴史に幕を閉じるとニュースで知りました。新刊の発売を記念してサイン会が何度も開催されましたし、勿論ホームページでもお知らせしましたが、当日は多くのファンの方が階段まで長い列を作って待っていたことが思い出されます。
 書籍の在庫が沢山ありましたので、どうしても欲しい本があった場合は遥々遠方から出かけたこともありました。
 一番今でも覚えているのは八重洲ブックセンターの事務所で宮本由美さんという方と初めて対峙したことです。私がやっているホームページをプロの観点から手直しをしてくださるということでデータを渡して欲しいという話をいただいたことです。何も知らない私は何と優しい方と信じ気ってデータをを渡したのですが、結果そのホームページは自分が運営したいので返したくないという申し出でした。私は書籍の販売だけすればいいのではないかということで。一度はその通りにしようかとも考えましたが、あまりにも勝手な申し出でしたので突然その申し出を拒否した経緯があります。その後も沢山の嫌な経験がありましたが、今では何故そのようなことをしたのかと冷静に考えることが出来るようになりました。あの方は今どうしているのでしょうか? その時のご自身の気持ちを訊いてみたいものです。
 書店がどんどん減ってしまって。本との素敵なご縁の中での出会いに心ときめく場所です。2028年には新たな場所で再開する予定だそうです。どのような店舗になるのか……、今から楽しみに待ちたいものです。 


2月13日

 2月3日の節分には、近くのホテルに宿泊をしていたこともあり、虎ノ門にある金毘羅神社でまめまきを初めて体験してきました。12時からの御祈祷の後に神主さんたち3人がまいたのですが、人が大勢のこともありますが、何せ慣れていないもので。他の方々は大きな布とかバックを用意されて上手に受けていらっしゃいました。私と言えばなかなか手で受けることは難しく。神主さんに手を振ってまめをこちらに、とアピールを繰り返しておりました。そろそろ終わりかなと思う頃に最後部にいた私に向かって投げてくださったので上手にキャッチすることが出来ました。何故かご縁があったようでとても嬉しくなりました。一緒に行った母は前の方にいたにも関わらす受けることが出来なかったのですが、周りにいた方々が福のおすそ分けと言って下さいました。優しい人たちに出会えてこちらも良かったです。
 ちなみにお豆の袋に入っていた「福神金像」は縁起ものなのでお財布とかに入れておいた方がいいそうです。ちなみにこれはネットで調べました。まさか、食べる人はいないと思いますが、、、。。


1月5日(2023)

 あけましておめでとうございます。本年も宜しくお願いいたします。
 昨年の夏以来更新をせずにおりましたことをお詫び申し上げます。管理人として今後についていろいろと考えることがあり、続けることが辛くなりました。今までならサイトをやることがとても楽しく、次は何をして行こうとアイデアを浮かびましたし、情報収集も積極的にしておりましたが、どうもうまくいかなくなりました。心の問題ではあると思いますが、悩みに悩んだ結果そういう状況に追い込んだのは他でもなく自分自身にあると、ふと気づくことが出来ました。見えざる何かに挑み妙な感情が愉しみを失わせ、先を見えなくしていったように思います。何故やるか?の長い自問自答の後、自分が楽しければいいのではないか、そしてご覧いただいた方が楽しんでいただければそれだけでいいこと。あまり深く考えずに今後は情報を提供させていただきたいと思います。


8月25日


 このホームページを初めてかた22年。一言で22年と言っても本当に大変なことが多々ありました。辞めたいと思うことも何度もありました。玄侑さんの情報を提供することを第一の目的としてやっていたにも関わらず玄侑さんを信じることが出来なくなったこと。
 一番辛かった事と言えば、私の気持ちを全く理解していただけなかったことでしょうか。人は人に為に力になりたいと決めた時にはかなりの情熱を持ってことに当たることができます。その思いに疑念が生じ、「何を企んでいるのか」と言われれば、一気の奈落の底に落とされた気持ちにもあるのもです。
 じゅあ何故に辞めなかったかと言えば、私もそれなりに頑固で意地もあったかと思います。めげそうになった時はいつも心の中で、美空ひばりさんの「一度決めたら~二度とは変えぬ~。それが男の生きる道」と歌ってました。
 福聚寺の大和尚に愚痴を言った時、「どっちもどっちやね」と言われました。どこかに似た面を持っているのでしょうか? お互い変わり者には変わらないようです。 


8月16日

 ホームページで、なかなか入手困難な書籍を販売していた訳ですが、担当は会社では無く私が一手に引き受けてました。仕事の合間を縫ってのことでしたのでなかなか大変でしたが、送った方からお礼のメイルなどをいただくと一気にやる気が倍増したものです。
 そんな中でちょっと困った想い出がひとつあります。玄侑さんから親書をある方に送るように指示されました。玄侑さんに直接依頼があったらしく、在庫を持ってましたので、ヤマトのメール便で発送しました。2~3日かかって届くのが通常なのですが。そもそも配送料は私の自腹になりますので宅配便にお願いするのはかなりの負担になります。それで割安なメール便を利用していた訳です。その鶴ヶ島のご婦人は急ぎで手に入れたかったらしく3日経っても届かないことにお怒りの連絡を玄侑さんにされました。そもそも玄侑さんに直接依頼して来ることが普通じゃないと気づけばよかったのですが、そこまで考えずにしたことです。かなりのトラブルになってしまいました。何とかご自宅に本は届いたようですが、どなたかに差し上げる予定だったみたいで役に立つことはできませんでした。私からお詫びのお手紙を差し上げたり、読売新聞の健康フォーラムの抽選が外れてしまったけど、どうしても参加したいということで、担当者の方に特別の入場券を融通していただき送らせていただきました。玄侑さんにはそれなりの言葉があったのかもしれませんが、私には何もありませんでした。それ以後本を送るということに充分気をつけてことを為すようになりました。


8月2日

 過去を振り返ることもなかなかいいもので、今では冷静にその当時のことを思い出すことが出来ます。新聞や雑誌の掲載を血眼になって探したり、地方紙に掲載されれば記事の転載承諾の申請と掲載紙の購入と、テレビやラジオの録画・録音など両親の力を借りて収集しました。エッセイやインタビュー記事などが掲載された時には併せて玄侑さんの写真が載ることが殆んどでしたが、カメラマンの方の承諾を得てホームページに載せていきました。皆さまのお力添えがあって充実したホームページになっていったのではないかと思います。私がこれまで得たものと言えば人とのご縁の大切さ、全てのものに感謝すること。諦めずにがんばればなんとかなるということです。そういう状況の中でもあまり玄侑さんは力もアイデアもホームページにはくださらなかったですね。理由は超多忙の一言です。 
 お寺の仕事と作家の仕事を一緒にする訳ですから、それは忙しいことだと思います。お寺はその頃はお父様が住職をされてましたので副住職として割と動きやすかったようです。和尚さん仲間では、住職になったらそんなに自由はできなくなる言われてました。当時はどんな気持ちでお仕事をされていたのでしょうか。正直あまりちゃんと話したことがなかったのです。事務上のやり取りのみだったのかもしれません。そんなことが私の中の不安がどんどん大きく渦巻いていったような気がします。


7月27日

 福島の桃「あかつき」が最盛期を迎えました。昨年は霜や台風の影響で収穫量がすごく少なかったのですが、今年は天候にも恵まれ、甘くジューシーな出来になっているそうです。桃の宣伝のためミスピーチも全国に旅立ちます。お近くでミスピーチがお邪魔した折にはあたたかく迎えてください。食べる1時間前位に冷蔵庫で冷やしてから召し上がると美味しさが増すそうです。
 スーパーマーケットなどの店頭にて福島産桃を見かけましたら是非食べてみてください。口福が気分はなること間違いなしです。


7月20日

 この三連休を利用して、青森まで旅してきました。今年の初めに計画をしておりましたので大雨警報が発令されておりましたが、予定通り出かけることにいたしました。福島から高速を使い宮城県に到着したあたりから東北道の通行止めの表示があり、やむなく大和ICで一降りて般道にて向かうことに。国道4号は通行止めの影響でしょうかかなりの渋滞。大崎市では道路の冠水注意が度々あり、カーナビに従って進むのですが、何度か道路の冠水や崖崩れで通行止めとなり迂回しました。信じるものはカーナビの案内。不安の中で山間部の狭い道を進むことやっと東北道の北上金ヶ崎ICにたどりついた時は、ホッとしたことは言うまでもありません。
 翌日、新聞記事によると宮城県の豪雨の被害が相当に及んだこと。そんな中無事に青森に到着したことに感謝しました。翌日にかけても線状降水帯が宮城、岩手両県に停滞するとの予報でしたので、秋田から日本海側で帰途することにしました。海岸線を通る景色の良いドライブには最高でした。
 今度機会がありましたら、もう少しのんびりと東北の旅を愉しみたいと思います。
 今日は、第167氣芥川賞・直木賞の発表お日です。芥川賞は高瀬隼子さんの「おいしいごはんがたべられますように」直木賞な窪美澄さんの『夜に星を放つ』でした。


7月13日

ホームページを立ち上げると大きな反響がありました。テレビやラジオ、雑誌に掲載など露出度が多くなるとその度に見て下さる方が増えていきました。当初はアクセスカウンターを設置しておりましたので、そのカウントが増える度にそんなに反響ってあるんだという驚きと共に情報をいち早く提供していかなければという妙な使命感も出て来ました。
 講演会にも一人でも多くの方に参加していただければという思いから、参加した講演会の纏めを当日か翌日にはUPしていました。そういえばいわきでの芥川賞受賞後初の講演会を私の父が文字おこしを行ない小冊子にして玄侑さんに記念としてお渡ししたのですが、「私が話したことを文字化されるのはちょっときついので外部には出さないで欲しい」ということでした。その後講演録として書籍化されていますが、あの時の発言の意図は何だったのでしょうか。初の連載エッセイは朝日新聞の広報誌「暮らしの風」での「べらぼーな生活」だったのですが、その時の文末に押印されていたお地蔵さんのイラストをスタンパーにして本を購入していただいた方へのお礼の文章に押しておりましたが、ある日突然著作権にかかわるからとかおっしゃって「私にください」とほんとに簡単な一言でその判を私から取り上げてしましました。3色作ったあの判子どうなっているんでしょうか。返して欲しいですね。まかが、、、自分で使っているということなどありませんよね。
 7月20日にBS朝日に、天龍寺の寿寧院さんが出演されるそうです。度々出演されていらっしゃいますが、お時間がよろしければ、是非ご覧ください。


7月7日

今日は七夕です。天の川は見えるといいのですが、、、、。
 さて、今回は水沢での講演会でのことを書きます。水沢には弟さんが住職を勤めるお寺がある関係で芥川賞受賞後に「玄侑宗久さん講演会」を開催しています。当初は私も講演会を聴きに行きました。10回参加するとプレゼントを差し上げますと会は始まった折に主催者の方が話されてましたので、欠かさず10回参加いたしました。ところがいざ10年目になるとプレゼントは檀家さんに限るとのことで私はいただけませんでした。別にプレゼントが欲しくて行った訳ではありませんが、そんなこともあるのかと、かなりがっかりしたことを覚えております。
 私が本の購入された方に、ほんの気持ちでしたが、サイン本に書かれている文字の説明を栞にしてプレゼントさせていただいたものです。それは母が夜なべをして作ってくれていたのですが、サインの意味がわかると皆さんには喜んでいただけたようです。
 ところで最初の頃、水沢での講演会の会場で本を購入された方にサインをする際のお手伝いをかってでたのですが、福島に戻った折に玄侑さんから、あの時のサインの手伝いをしていたのは90%の方が奥様と勘違いされていたそうで、私とすれば本屋として手伝いをしたつもりでしたが、人は意外が感じ方をされるのだとビックリしました。それ以来玄侑さんも手伝えとはおっしゃらないですし、私も余計なことはするまいと心に決めた次第です。その件の真相は未だにはっきりとはしておりませんが、案外玄侑さんのフィクションで私のすることが嫌だったためにそういう話を持ちだしたのかもしれません。真相は藪の中~ですね。


6月28日

 ホームページの公開日が11月1日決まり、その準備で慌ただしい日々が続いていたのですが、それもまた愉しんでいたように思います。公開日当日あドキドキしながらもファイルをプロバイダーに無事転送出来た時は、そうれはもうホッとしたものでした。月に一度ホームページへ近況や、お知らせなどエッセイを書いていただくことを約束していただき「ご挨拶」というタイトルでUPしました。作家としてそのような形でのホームページは珍しかったように思います。
 私も読者の方が何を知りたいのか、興味はどこにあるのかと考えつつ情報を提供して行きました。ホームページを介しての仕事の依頼もかなりあり、ますます玄侑さんは忙しくなりました。文章を読むことも大切ですが、講演会ではどのような話をされるのか興味がありましたので、北は北海道から南は島根まで追っかけをしました。残念なのは未だ九州へは上陸していないことです。
 過去も講演会のリストはサイトでもご覧いただけますのでよろしかったらご覧ください。その文章を私が書いてUPしていたんですが、玄侑さんはあまりお気に召さなかったようで、あまり詳しく載せないで欲しいと伝えて来ました。講演会の纏めを読んでいただいて、うちでも是非講演して欲しいという主催者がいてくれたらという私の思いはどうも素直には受け容れてはもらえなかったようです。
 私の講演会の追っかけですが、一人で行かせることに心配した両親はいつも一緒について来ました。玄侑さん曰くだんご三兄弟親子だそうです。また会場は有難いことに満員のことが多かったのですが、私はといえば会場の後方の目立たぬところで聴いておりましたが、ある時玄侑さんから「人の話を腕を組んで聴くんじゃない」とお叱り?をいただいたこともありました。あの広い会場でよく私がその講演を聴きに来ているなんで全然知らないはずなのに、私をよく見つけたものだ~とかなり驚いたものです。眼がよかったのか?当時は離せば分かる老眼(花眼)だったからなのでしょうか。今もってその真相は分かっておりません。たぶん訊いても教えてはいただけないでしょうが。 


6月21日

 当然のことですが、コロナ禍の前に玄侑さんは恒例行事として2月にちょっぴり長い休みをとられて海外た日本に旅行されていました。時々エッセイにも登場してくるので皆さんもご存じかと思います。ほら、象に乗った話とか、領事館での特別講演とかもあったりしました。一度海外での講演の私も行こうかなぁって話ましたら、すごくご丁寧に「ご遠慮ください」とのお返事でした。この「ご遠慮下さい」という言葉は度々登場する訳で、そう言われる度に私はそこまで嫌われてる訳?と思うのです。度重なると慣れるということは恐ろしいものであまり気にしなくなりました。
 日本に残る私としてしては、ご両親がお二人で生活されるものなかなか大変なのでは、と思い旅の中ごろにお寺に伺いました。いわきは新鮮なお魚で有名ですので、お夕食にと持参いたしました。中でも想い出深いものが、いわきの名産「貝焼き」です。これは雲丹を貝殻にのせ、焼き上げたもので生よりも風味が増して美味しいのではないでしょうか。それをお持ちした際に、お母さまが「大和尚の大好物です」と仰いました。中通りの方は魚はあまり召し上がらないと伺ってまして、ましてや雲丹は敬遠されるのかと思っておりましたから意外でした。数年後、大和尚の津送の際にご出身は岩手の海岸沿いと伺い納得した次第です。美味しく召し上がっていただいたとお母さまからご報告いただき私も嬉しくなりました。美味しい食べ物は人を幸せにしてくれるんですね。まさに雲丹の功徳かなぁ。


6月14日

とにかくいろいろなことが多かったのですが、その中でも面白かったのが「中陰ガム」のことです。芥川賞を受賞した後に「大法輪」(大法輪閣)に「中陰ガム」というエッセイが掲載されたのですが、その最後にロッテさん、「中陰ガムの製品化はいかがでしょう」というくだりがあったのですが、それを真に受けた私は偶々フジテレビの「めざましテレビ」のキャスターだった小島奈津子アナウンサーに、ロッテのキャンペーンでガムに名前入りのガムをプレゼントの企画で名前入りのガムを番組中でプレゼントをする映像を見て、何の迷いもなく「うん、これはご縁でしかない」と早速ロッテさんにエッセイのコピーを添えて手紙を送りました。そんなに長い時間はかからなかったと思いますが、ロッテの専務の方が直接私の会社に電話を下さいました。それによると「社内で何度も検討させていただいたのですが、制作までの時間を経費を考えると、企画をしては面白いのですが残念ながら商品化には出来ませんでした」とのこと。そこまで皆さんで相談されたことに、商品化はされませんでしたが感謝しました。今アイドルの方がガムの表紙に印刷されたものを見ると商品化されなくて残念だった思うのです。なにせアイドルさん達はカッコよくて見栄えもいいからなぁ、、、。玄侑さんは???仕方ないか~。こんなこともありましたよ、で書きました。これからも思い出して書いて行きます。


6月11日

 ホームページのレイアウトはどのようにしたらいいのかと、あれこれ考えを巡らせる日々がかなり続きました。PCの経験ゼロの私にとって全てのことが何?の連続。偶々バイトに理系専攻の学生がいたのであれこれ聞きながら手伝ってもらってました。ファンとしたら作家の何を知りたいかをまず第一に考え、分かりやすく見やすい為にはどうしたらいいか。ノートに下書きを何度も書き換えやっとの思いで大枠が決定したのです。その時一応の経過は玄侑さんに報告をいたしましたが、「まぁ、任せます」ということでご自身の意見は全くと言っていいほどありませんでした。それも当然な成り行きで芥川賞受賞後は作家と僧侶の二足の草鞋がこうを効を奏してか、日本の北から南まで講演会のお呼びがかかり週に2,3度はこなしていらしたようです。そんな状況ですから相談にのっていただくことは無理だったのかもしれません。お寺にご相談をと思って伺っても来客中とのことでなかなかお会いすることはかないませんでした。それも後になってわかることなのですが、そういう扱いをされたのには理由があったようです。
 私はと言えば、何を考えどういう人柄なのかを知りたくて書かれたものは全て読みましたし、講演会があると伺えばできる限り参加いたしました。聴講料が必要なものは全て自分で支払いましたし玄侑さんにお世話になることはありませんでした。もしかしたらそのころ講演会を一番数多く聞いていたのではないかと思います。PHPの編集者の方もよく講演会に参加されていたようで、それが1冊の本のなって出版されました。私も仕事との両立で結構大変でしたが、その忙しさも楽しんで打ち込んでいたように思います。


6月7日

玄侑さんは大事な行事の時は兎に角雨が降ります。芥川賞受賞式は台風による暴風雨の中でした。芥川賞を受賞祝賀会がその年の9月に三春伝承館で行なわれることになり、招待状をいただきましたので参加させていただきました。伝承館の広場を使っての会でしたので解放感もあり、今までお会いしたこともない方々と談笑とか、三春の土地ならではの料理もいただき愉しい会だったと思います。最後にイベントととして参加者への抽選会がありました。私も運よく?なのでしょうか。作品を執筆したというパイロットの万年筆が当たりました。周りにいらした方々も驚きうらやましがられました。ですが、後々になって分かったことですが、玄侑さんは執筆はパソコンでされているので万年筆って使ってないじゃん!まんまと騙されてしまったのです。その後のそれってどうなっているかと、、、。机の奥にしまってます。添え書きも何もないごく普通の万年筆。そろそろご本人にお返ししようかなぁ。今じゃもっといいものを買ったんでいらないかもなぁ。迷走中の万年筆、さてどうなることやら。
 ホームページの公開を2001年11月1日と決めて準備を始めたその年の9月でした。


5月17日

 いわきでの受賞記念公演会が成功の内に終了したこともあり、お礼でお寺に伺った時初めてホームページの話をしたような気がします。作家としていろいろと情報を提供する場も限られており、出版社の編集担当と言っても一人の作家にかかりきりになるものではないので、ご自身で積極的に発信していくのにホームページを立ち上げた方がいいのではとお薦めしました。私は何の経験もありませんが、やらせてくださいとお願いいたしました。その場で承諾をいただいたように思っております。その時の私とすれば作家としての玄侑さんを陰ながら支えたいという気持ちであり、自分が一番のファンになろうと決意したのでした。
 ホームページの作成といっても右も左も分からない状態ですし、まずはそんなのパソコンにかんしての知識もある訳ではありません。上司や出版社の営業の方々に相談をし1から始めることになりました。まずはドメインをどうする?これには悩みましたね。どうやって取得すればいいのかも分からないですし、ホームページってどうやって運営していけばいいのすら分からない。まさに四苦八苦とはこのことです。いつしかそのことに全力を傾けていくようになりました。
 それに併せて仏教のぶの字も分からない私ですから、仏教関係の本を読み始め、玄侑さんがお薦めしてくださった本も読み始めたのです。道場に入るきっかけとなった平田精耕老師の絶版になった『一切は空』をネットで発見した時は嬉しかったですね。今でも時々読み返してはおります。


5月11日

 ゴールデンウイーク明けのコロナ感染者の増加傾向には歯止めがかからないことに一日も早い終息を願うばかりです。かくゆう私もゴールデンウイークを利用して京都の天龍寺に行って来ました。一昨年は観光客もほとんど見当たらず閑散とした天龍寺でした。外国からの観光客も多く歩くさえ不自由に感じてましたがその景観には逆に淋しさを感じた程でした。打って変わって今年は今までのゴールデンウイークには比べられない程の人出でした。上空ではヘリコプターが周辺の込み具合をテレビがレポートしておりました。シャッターが降りたままの店舗もどのお店も行列が出来ておりました。今まで家で籠った状態が長く続いたので、外での解放感を満喫しているようでした。
 私はお忙しい中で申し訳なかったのですが、寿寧院さんにお会いしいろいろとお話をさせていただきパワーをいただいて来ました。感謝!感謝!です。
 HPをたどる旅を続けます。
 公演会は大盛況の内に終わり、本を購入されサインを求める列が長く続き予定を過ぎても終わることはありませんでした。注文した本では間に合わず、予約にて受けることにいたしました。そういえば当日の朝文藝春秋の営業部長増田さんに、「今日はがんばってやります」と電話ではお話したのですが、「私はそちらに伺うことは出来ないけど、がんばって」とお返事をいただきました。その部長が雨の中公演会のちょっと前に会場にいらしてくださいました。あまりの盛況さにかなり驚かれ、本が飛ぶように売れていくのにもまさに予想外の出来事だと話されてました。追加発注も快諾していただきました。この公演会はいろいろな方の応援があって成功したもので感謝してもしきれない程です。部長は、「本当に会が成功して良かった」と一言残されて帰京されました。
 公演会後には打ち上げがあったのですが、これも盛り上がりました。成功の喜びからか皆笑顔で談笑してましたっけ。
 ところで事前にお膳の予約をしていたのですが、参加者が急に増えて私の分のお膳が無くなってしまったのです。それを見た玄侑さんは私に「どうして食べないの」と聞くので「公演会の緊張で胃がちょっと痛いので」と答えると「公演する方はそうなるけど、あなたがそうなるのは可笑しいなぁ(笑)」とにかく玄侑さんという方はそういう面ももっていらっしゃるんです。


5月2日

 講演会のことが続いてまして申し訳ございません。もう暫くお付き合いください。
 当日のことですが、本部からと各店店長そして日販の担当者の方が応援に駆けつけてくださいました。女性店長は、芥川賞作家の方のサインのお手伝いなど一生に一度あるかなかのことなのでと洋服を新調されたそうです。
 朝から会場の設営に社長を初め30名位であたりました。部長は椅子を並べながらももしそんなに人が集まらなかったらどうしようか、円形テーブルにしてお話を聞くという形態に変更しようと何度も繰り返し話していました。
 開場の時間になると人はどんどん集まり会場には収まりきらず立ち見の方まで出るという大盛況でした。当時の市長にも祝辞をいただき無事に会が始まりました。玄侑さんは、開口一番「ガンバの公演会」にいらした方、間違ってここにいらしてませんか?で会場は笑いとともに和やかな雰囲気に包まれました。


4月27日

講演会を開催するにあたり最初に会場をおさえなければなりませんでした。当時は立地条件、そして収容が充分に確保される場所として市民会館が一番ではないかと思いました。千人単位ではキャパが大きすぎると判断いたしまして会議場ともなるホールを予約しました。ポスターを作成し近隣の大学や父が勤めておりました市役所の知人に声をかけ会場を満席にするようにと宣伝活動をいたしました。もちろん地方のラジオ局、そして地方紙にもイベントの紹介をお願いいたしました。そういえば会場に看板を掲げなければいけないだろうと看板屋さんにもかなり大がかりな看板をホールに掲げてもらいました。
 当日のスケジュールなど細部にわたって抜けがあってはならないと綿密な計画を立てて行きました。当日サイン本を販売しようということになったのですが、出版社である文藝春秋の営業は作家の講演会ではそうそう本は売れるものではなくキャパの20%が相場だと話されていました。200名のキャパだと50冊で充分ではないかとアドバスをいただきましたが
強気に200をお願いしました。これはちょっと無理な数だというのも福島出身の作家の処女作いうことも会社全体で盛り上げて行こうということになった次第です。こんな裏話があったということを玄侑さんはつゆほども思わなかったでしょうね。着々と準備をするうちにあっと言う間に講演会当日となりました。


4月19日

 「中陰の花」が芥川賞候補作になったと連絡が最初に入ったのは専務からでした。その後に文藝春秋社のFAXにての「お知らせ」でした。正直続けて候補作になるとは思っておりませんでしたので、へぇ~ちょっと驚きましたね。その時はあまり期待することもなく発表になるまでを淡々と通常の業務をこなしておりました。
 発表の当日、専務より電話があり、「玄侑さんが受賞したから明日早速ご挨拶に伺いなさい」それが会社からの命令でした。翌朝、開店準備が終了したら直ぐに、知り合いの花屋さんから胡蝶蘭の鉢植えを持参してお寺に伺いました。
 お祝いの言葉を申し上げた後に、受賞後の最初の講演会をうちの会社主催で行なわせていただきたいと申し上げました。すんなり承諾していただいたことを記憶しております。恐らく一番最初にそのような申し出をしたのがうちだったから受けていただけたのだと思います。
 書店としてはイベントを多くしている方でしたので、開催するにあたってはさしたる問題はなかったのですが、ただ取次の担当者によると、今まで開催したイベントで成功したものはなかったということです。はたして今回の講演会はうまく終えることができるかどうか、、、。失敗で終わる訳には行きません。その日から私は東奔西走の日々を過ごすことになったのです。


4月13日

「水の舳先」が第124回芥川賞候補作になったので単行本化されたのだと思いますが、出足はなかなあ好調でした。当書店でも何か地元ならではの特典をと考え著書にサインをお願いすることにいたしました。恐らく著書にサインを入れるというのも最初のことかもしれませんが、それはもうお寺中で大変な騒ぎだったと伺いました。
サイン本を受け取る際に、もし今度芥川賞を受賞した折には、うちのお店で講演会をお願いしますと口約束でしたが、お願いはしました。
芥川賞受賞をされた作家さんで世の中で名前を覚えてもらえる方ってどの位いらっしゃるのでしょうか。次回作に悩む方も多いと伺います。
私は書店という場所に勤務をいたしておりましたから、出版に関する情報はかなり得やすい状況にありました。出版部に方とお知り合いの方はいませんが、営業部の方々とはよい関係を保つことが出来ました。本社でも出版社との関係をそれはもう大切にしておりました。そんなことから情報を得ることは簡単でした。 
刷り部数は編集部より玄侑さんに伝わるとは思いますが、販売部数とかランキングは私の方が詳しかったと思います。そういう環境にあったからこそ、玄侑さんのお役に立ちたいと思ったのかもしれません。昔は書店が作家さんを育てていくものという意識が書店員には強くあったように思います。


4月6日

このホームページを立ち上げてから、もう21年が経ちました。あぁ、私もそれだけ歳を重ねてきたんですね。
どうして私がホームページをすることになったか、それは偶々のことでした。それは「水の舳先」が芥川賞候補作に選ばれる以前からはじめなければなりません。
私が書店勤務をしていた折に、朝一番に男性のお客様が「今朝ラジオで小説のことを話していたんだけどその本が欲しいんだ。注文してもらえないかなぁ」とおっしゃりました。うろ覚えの中の題名ではいくら検索してもその小説はヒットしませんでした。出版されたものの検索は可能ですがまだ発売されていないものはどんなにがんばっても結果は表示されません。その男性には一旦お帰りいただき分かり次第連絡をするということになりました。ラジオで話していたこと、福島の船引あたりに住んでいる作家さんだということ、その2点しかヒントはありませんでした。まずは船引の役場に問い合わせで聞いてみるしかないと思い電話をしました。対応してくださった役場の方によるとうちではなく三春にお住まいだと思うので三春の商工会議所なら詳しいことを知っているはずではと教えてくださいました。三春の商工会議所に問い合わせると、その方は福聚寺の和尚さんではとないかということになり電話番号を教えてくださいました。早速お寺に電話をすると偶々電話に出てくださったのが、その玄侑宗久さんだったのです。小説は、雑誌に掲載されたものでまだ書籍にはなっていないが、直に新潮社から出版する予定であることを教えていただきました。
お客様に小説のことを説明すると、是非読みたいので予約をしたいとの申し出があり、出版社に地元なので是非配本をして欲しいとお願いしました。これがすべての始まりです。その時は様々な佳きご縁の中でことが進み出しました。